表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
内乱記異聞  作者: 奪胎院
第一部:イタリア電撃戦

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

19/111

第二章:蜘蛛の巣

ガリア・キサルピナ(北イタリア)の冬の夜は、深く、そして凍てついていた。


後方拠点に置かれた司令部の一室で、ガイウス・カニニウス・レビルスは、広大なガリア全土の地図を前に、静かに思考を巡らせていた。


彼の部屋は、カエサルがアリミヌムに置くであろう、戦術地図と武具しかない殺風景な司令部とは趣を異にしていた。


壁一面に備え付けられた棚には、羊皮紙の巻物が整然と並び、ガリア各地の兵站状況、兵力配置、同盟部族の動向、穀物の備蓄量といった、あらゆる情報が分類・整理されている。


数人の書記官たちが、レビルスの指示を待って、黙々とペンを走らせ、あるいは計算盤を弾いていた。部屋全体が、まるで一つの巨大な頭脳のように、静かに、しかし休むことなく機能している。


レビルスは、この自らが作り上げた情報網を「蜘蛛の巣」と呼んでいた。


巣の中心にいる自分のもとへ、ガリア全土に張り巡らされた無数の糸から、獲物のかすかな振動、すなわち「情報」が伝わってくる。


その情報を分析し、次の手を打つ。


それが、元補給官である彼の戦い方だった。


その静寂が破られたのは、一人の伝令が、夜の闇を引き裂くように駆け込んできた時だった。

カエサルの個人印が押された、最重要の書簡。

その封を切るレビルスの指先は、いつも通り、氷のように冷徹であるはずだった。


「……馬鹿な」


書簡を読み終えたレビルスの口から、凍り付いたような声が漏れた。


その端正な顔から血の気が引き、カエサルからの短い命令文を握りしめる指が、微かに震えていた。


書記官たちが、主の見たことのない姿に息を呑む。


ティトゥス・ラビエヌスの離反。


それは、レビルスが積み上げてきた全ての計算式の、根底を覆すに等しい衝撃だった。

彼の計画において、ラビエ-ヌスは「変数」ではなかった。


カエサル軍最強の攻撃力を示す、揺るぎない「定数」。全ての計算の前提となる、絶対的な存在。

その柱が、前触れもなく砕け散ったのだ。


「閣下……?」


筆頭書記官が、恐る恐る声をかける。レビルスは答えなかった。


彼の頭脳は、突如として投げ込まれた破壊的な情報によって、激しく揺さぶられていた。


駄目だ、思考がまとまらない。


ラビエヌスが敵に回るということは、こちらの進軍ルート、補給線の弱点、将校たちの思考の癖、その全てが敵に筒抜けになるということだ。練り上げてきた計画は、もはや毒の塗られた地図に等しい。


レビルスは顔を上げると、壁に張り出された巨大なイタリア半島の地図を睨みつけた。


そこには、何本もの線が引かれ、各軍団が数週間かけて進むはずだった完璧な進軍計画が記されている。


彼は無言でそれを引き剥がし、くしゃくしゃに丸めて床に投げ捨てた。


「……全ての計算を、破棄する」


部屋に、緊張が走った。


「これより、計画を再構築する。半日の猶予もない。夜が明けるまでに、新たな進路を導き出すぞ」


その一言を合図に、部屋は静かな狂乱の渦に叩き込まれた。


「ガリア全土の街道地図、主要河川の最新の水量報告、ポンペイウス派が徴兵可能と思われる都市の人口リスト、全てだ! 今すぐここに持ってこい!」


レビルスの号令一下、書記官たちが棚という棚から羊皮紙の巻物を引きずり出し、床一面に広げていく。部屋は瞬く間に、情報の海と化した。


レビルスはその中心に座り込み、恐るべき集中力で情報を吸収し始めた。彼の目は血走り、髪は乱れ、食事も水も口にすることなく、ただひたすらに思考を続ける。


(ラビエヌスなら、アペニン山脈のどの峠道を警戒するか? いや、裏をかいて沿岸部を強行突破すべきか? だが、それでは補給が…)


(トレボニウスの後続部隊の到着が、最低でも三日は遅れる。その間の兵力差をどう埋める? ダメだ、このままでは各個撃破される…)


計算盤を弾く音がけたたましく響き、羽ペンが羊皮紙の上を走る音、そしてレビルスの低い呻き声だけが、司令部を満たしていく。時間だけが、刻一刻と過ぎていった。


数時間が経過し、窓の外が白み始めた頃。


疲れ果てた書記官たちの動きが鈍り始めたその時、情報の海の中で微動だにしなかったレビルスが、不意に顔を上げた。

その目は赤く充血していたが、その奥には、混沌の中から唯一の解を掴み取った者の、鋭い光が宿っていた。


「……見えた」


彼は立ち上がると、新たな羊皮紙を手に取り、よどみない口調で指示を始めた。


それは、絶望的な状況から彼が導き出した、あまりにも大胆な回答だった。


「筆頭書記官! ガリア・キサルピナのプランクスへ伝令。現行の進軍計画は全て破棄。目標を、可及的速やかな南イタリアへの進出に変更。新たな行軍計画をただちに送る。補給線は私が維持する、と伝えろ」


「第二書記官、ガリア・トランサルピナのトレボニウスへ。後続部隊の編成を急がせよ。ラビエヌスが敵に回ったことで、ポンペイウス軍の側面防御は、我々が想定していたものより遥かに強固になる。彼の知識は、我々の兵站線の弱点を的確に突いてくるだろう。迂回路と偽の補給路を複数設定する。詳細な地図を添付せよ」


一通りの軍事的指示を出し終えた後、レビルスは息をつく間もなく、別の書記官に向き直った。


「カエサル閣下の名において、公式な通達状を二通作成する。相手は、レミ族とリンゴネス族の族長たちだ」


「まず、〝穀倉の民〟レミ族へ」


レビルスは、誇り高き農耕民の族長を思い浮かべながら言葉を続ける。


「『我が盟友、レミの民へ。我は今、ローマの未来を賭けた戦いに赴く。我が背後、すなわちガリアの平穏は、誰よりも信頼する君たちに委ねたい。君たちの畑がローマの兵士たちの胃袋を満たしてくれたように、今度は君たちの忠誠心が、我らの背中を守ってくれると信じている』…文面は任せる。要は、彼らの誇りをくすぐり、実利を示せ。我らが不在の間、ガリアの穀物交易の主導権を、暗に約束するのだ」


「次に、〝街道のドワーフ〟リンゴネス族へ」


彼らは、ガリアの主要街道を整備し、物流を支配するドワーフの一族だった。


「『街道の守護者、リンゴネスの民へ。君たちが築いた道が、我らを勝利に導いた。今、我らはその道を頼りに、ローマへと進軍する。我らが留すの間、この偉大な道の守りを君たちに託す。いかなる者も、我らの兵站を脅かすことを許すな。これは命令ではない。ローマの最高司令官から、最高の職人たちへの、信頼の証である』…と。彼らには、Dignitas(尊厳)をもって遇するのが最善だ」


最後の伝令が、昇り始めた朝日の中へと駆け出していくのを見送った後、レビルスは一人、部屋に残った。


彼は再び、静まり返ったガリア全土の地図を見つめる。その脳裏に、数年前の、ある町の光景が焼き付いていた。


ウクソドゥヌム。ガリア最後の抵抗拠点だった城塞都市。


あの時、カエサルは降伏した兵士たちの両手を、手首から切り落とした。見せしめだった。

ローマに最後まで弓を引く者には、慈悲も寛容もないという、徹底的な恐怖ムチ

その冷徹な計算は、ガリア全土の戦意を、根元から断ち切った。


一方で、レミ族やリンゴネス族のように、ローマに協力する者には、市民権や莫大な報酬、そして自治権という、破格の**利益アメ**が与えられた。


レビルスは地図の上で、ガリアの主要な部族が住む地域を指でなぞった。


(恐怖と、利益。この二つの巨大な楔が、ガリアの地に深く打ち込まれている)


彼は、疲労の滲む声で、しかし、確信をもって結論する。

(恐怖は、反逆の意思を麻痺させ、利益は、従属の心地よさを教える。この二重の枷がある限り、ガリアが再び大規模に蜂起する確率は、限りなくゼロに近い)


後方は、問題ない。


「蜘蛛の巣」は、最大の危機を乗り越え、より強固に、そしてより危険な罠へと、その姿を変貌させていた。


レビルスは地図から顔を上げると、自らの武具を静かに身に着け始めた。彼の戦場は、ここではない。カエサルのすぐ側だ。


計算の天才が、いよいよ盤上へと駒を進める時が来た。

最後までお読みいただき、ありがとうございます!

面白いと思っていただけましたら、ブックマークや下の評価(★★★★★)で応援していただけると、大変励みになります!

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ