第一章:賽は投げられた
紀元前四十九年、一月。
イタリア北部の都市、アリミヌム(現在のリミニ)は、凍てつくような緊張に包まれていた。
数日前、ガイウス・ユリウス・カエサルが、麾下の第十三軍団と共に、属州総督の権限を越えてルビコン川を渡ったという一報は、瞬く間にイタリア全土を駆け巡った。
それはローマ共和国の法を決定的に踏み越える行為であり、元老院に対する明確な宣戦布告に他ならなかった。
占領されたアリミヌムの公庁舎の一室は、急ごしらえの司令部と化していた。
ランプの灯火が、床に広げられた巨大なイタリア半島の地図をぼんやりと照らし出している。部屋の主は、カエサルただ一人。
彼は椅子に深く身を沈め、指を組み、静かに地図を見下ろしていた。八年にわたるガリアでの死闘を終え、ようやく故国に戻った彼を待っていたのは、凱旋式の栄誉ではなく、国家反逆者としての烙印だった。
(……ポンペイウス。そして、カトー、今年の執政官レントゥルス。貴様らか)
脳裏に、政敵たちの顔が浮かぶ。彼らは、カエサルがガリアで得た莫大な富と、兵士たちの絶対的な忠誠を恐れた。
その恐怖が、彼らを拙速な強硬策へと駆り立てた。
だが、カエサルは彼らを憎んではいなかった。ただ、ローマという巨大な船が、旧弊という名の座礁地帯に向かって突き進んでいるのを、これ以上看過できなかっただけだ。
単にローマを武力で制圧するだけでは意味がない。
それでは、かつてスッラが行った粛清の再現となり、新たな憎しみと混乱を生むだけだ。
彼が目指すのは、ローマという国家システムの完全な刷新。
そのためには、圧倒的な武力と、それを上回るほどの寛容さ(クレメンティア)を同時に示し、人心そのものを掌握する必要があった。そのための壮大な計画は、すでに練り上げてある。
思考の海に沈んでいたカエサルは、扉が静かにノックされる音で現実に引き戻された。
「入れ」
短く応じると、一人の伝令兵が音を立てずに入室し、カエサルの前に恭しくひざまずいた。
北方を守る主力軍団からの、緊急報告だった。
ずぶ濡れの外套、泥にまみれた脛当て、そして何より、その目に浮かんだ怯えの色が、事態の尋常さを物語っていた。
「申し上げます! 北方軍団より、緊急のご報告!」
伝令兵は、震える手で封蝋された書簡を差し出した。
カエサルはそれを受け取ると、小刀で静かに封を切る。室内に、乾いた羊皮紙が擦れる音だけが響いた。そこに記されていたのは、信じがたい、しかし、簡潔な事実だった。
――ティトゥス・ラビエヌス、単騎にて出立。行き先不明。事実上の、離反。
書簡を読み終えても、カエサルの表情は変わらなかった。まるで感情という機能が抜け落ちたかのように、静かだった。だが、彼の周囲だけ、空気が歪んだかのような濃密な沈黙が落ちていた。
ラビエヌス。
それは、カエサルの名と共に、常に勝利の代名詞として語られてきた男の名だった。
ガリア戦争を通じて、カエサルが最も信頼し、最も頼った副官。その戦術眼はカエサルに次ぐと誰もが認め、その勇猛さは兵士たちの尊敬を集めていた。カエサル最強の「剣」であったはずの男。
(……なぜだ、ラビエヌス)
カエサルの心中で、初めて純粋な疑問が浮かんだ。怒りや悲しみではない。
ただ、理解できないという困惑。
あの男は、小カトーのように、共和政という理念に殉じるような狂信者ではなかったはずだ。
ならば金か? 地位か? いや、それも違う。あの男が、私との絆を、そんなもので売り渡すはずがない。
ふと、カエサルの脳裏に、遥か昔の記憶が蘇った。
まだ若き日のラビエヌスが、ポンペイウスの麾下で功を立てたという話を、風の噂で聞いたことがあった。
(……まさか。あれほど昔の、恩義のためだとでも言うのか)
自らのDignitas(尊厳)のために、か。
彼が信じる信義を貫くために、勝利の確実なこちら側を捨て、敗北の可能性が高い船に乗ると? 私との友情や絆よりも、はるか昔の恩義の皿が、彼の天秤を傾かせたと?
(…あり得るかもしれんな。あの男ならば)
カエサルは、その可能性を完全には否定できなかった。そして、もしそれが真実ならば、事態はより深刻だった。
「一度裏切った者は、また裏切る」
という言葉は、ラビエヌスには当てはまらない。
彼のような男が、自らの信義と尊厳を賭けて下した決断は、決して覆ることはない。彼は二度と、こちら側に戻ることはないだろう。
理由は、もはやどうでもいい。
カエサルは思考を切り替えた。重要なのは、ただ一つ。
ティトゥス・ラビエヌスという、カエサル軍の戦術、兵站、将校たちの癖に至るまで、その全てを知り尽くした男が、完全に敵に回ったという事実。
この最悪の変数は、もはや排除できない。ならば、計算に組み込むしかない。
カエサルの脳裏で、練り上げていた壮大な計画が、音を立てて崩れ、そして全く新しい形へと再構築されていく。悠長に構えていては、ラビエヌスの知識が牙となって、こちらの喉笛を食い破るだろう。
だが、この最悪の裏切りは、同時に、最高の好機でもあった。敵は、カエサル最強の副官を得たことで、必ずや油断する。その慢心の隙を突く。
カエサルは立ち上がると、傍らに控えていた書記官に静かに告げた。その声には、先ほどまでの沈黙が嘘のような、鋼の響きがあった。
「計画は、全て変更する」
書記官の肩が、微かに震えた。
「これより、我々は電撃戦に移行する」
カエサルは、部屋をゆっくりと歩きながら、即座に二つの指令を口述し始めた。
「一つ。後方のガリア・キサルピナにいる、ガイウス・カニニウス・レビルスへ送れ」
レビルス。元老院騎士階級出身の元補給官。戦場での武勲ではなく、兵站と情報の管理、そして数字を読むことにかけて、カエサルの軍団に並ぶ者のない「計算」の天才。
カエサルの頭脳そのものとも言える男だ。
「――ティトゥス・ラビエヌスの離反を確認。これより、全作戦は第二段階へと移行する。従来の進軍計画は全て破棄。イタリア半島全土の電撃的制圧を新目標と定めよ。我が本隊の行動計画、及び後続部隊の行軍路を、ラビエヌスという変数を組み込んだ上で再計算し、最適化された計画を即座に立案、実行せよ。お前の計算が、我々の進む道だ」
それは、軍団の全ての動きを、後方にいる一人の男の計算に委ねるという、前代未聞の指令だった。
「そして、もう一つ。ローマに潜む、我が友人たちへ」
カエサルは続けた。その相手は、公職には就かず、彼の個人代理人としてローマの裏側を支えるガイウス・オッピウスとルキウス・コルネリウス・バルブスだ。
「――静かなる戦争は、これをもって実戦段階へと移行する。かねてよりの計画通り、元老院派に与する者、我らに敵対する意志を見せる者、その全ての経済的封鎖を、ただちに断行せよ。兵糧攻めは、戦場だけで行うものにあらず、とな」
二つの指令を淀みなく告げ終えると、カエサルは再び地図の前に立ち、その盤面を冷徹に見据えた。
最悪の裏切りを、電撃戦開始の狼煙へと、瞬時に変えてしまう男。敵の刃を、自らの戦略を加速させるための追い風へと変えてしまう男。その思考の速さと深さは、神の領域に触れていた。
賽は、投げられた。
だが、その賽を投げたカエサル自身が、ゲームのルールそのものを、今この瞬間に書き換えていた。
不穏な時代の幕開けを告げるように、アリミヌムの空を、冷たい冬の雨が静かに濡らし始めていた。
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