第十六章:静かなる出奔
北方の拠点都市は、冬の静寂に包まれていた。
ローマ軍団の総指揮を預かるティトゥス・ラビエヌスの司令部では、ランプの光が、広げられたイタリアの地図を暖かく照らしていた。
数人の百人隊長たちと共に、ラビエヌスは平和な未来を設計していた。兵士たちの退役後のための、土地分配計画だ。
「…第十軍団の古参兵たちは、カプア周辺の肥沃な土地を。第十三軍団は、アドリア海沿岸の温暖な地が良いだろう。皆、家族の元へ帰るのだ。それにふさわしい褒賞を与えねばならん」
その声には、長かった戦争の終わりを実感する、穏やかな響きがあった。
元老院との妥協案が成立し、内乱は回避された。その「脆いが確かな希望」だけが、彼の心を苛む矛盾から、かろうじて救い出してくれていた。
その、凍てついた希望が、音を立てて砕け散ったのは、二人の使者が、まるで凶兆を告げる凶鳥のように、ほぼ同時に駆け込んできた時だった。
一人目の使者は、ローマから。彼がもたらした羊皮紙には、ラビエヌスの知る限り最も重い言葉が記されていた。
**「元老院最終勧告(セナートゥス・コンスルトゥム・ウルティムム)」**の発令。
国家非常事態宣言。カエサルを「国家の敵」と断定する、最後通牒。
そして、二人目の使者は、南のラヴェンナ方面から。彼がもたらした報告は、さらにラビエヌスの心を打ちのめした。
「カエサル閣下、第十三軍団を率い、ルビコンを渡河。イタリア本土へ進軍を開始せり」
ラビエヌスは、その二つの報告書を手に、その場に立ち尽くした。希望は、消えた。妥協の道は、完全に断たれた。
賽は投げられてしまったのだ。そして今、自分自身もまた、賽を投げることを強要されている。
その夜、ラビエヌスは自室で、一人静かに鎧を身に着けていた。その動きには、一切の迷いがない。まるで、長年考え抜いた末に、ついに一つの解へとたどり着いた数学者のようだった。
彼の頭脳は、もはやどちらの正義が優れているかなど、考えてはいなかった。ただ、自らの魂の貸借対照表を、冷徹に計算していた。
彼の心の中には、二つの巨大な天秤が並んで置かれていた。
一つは、カエサルの天秤。
その一方の皿に、カエサルから与えられた恩義と友情を乗せる。
ガリアにおける副官という最高の地位、絶対的な信頼、そして十年以上を共にした戦友としての絆。
そして、もう一方の皿に、自分がカエサルに返したものを乗せる。
数々の勝利への貢献、ガリア全土の平定、そして自らの命を幾度も危険に晒した、揺るぎない忠誠。
二つの皿は、ゆっくりと揺れ、やがて、完璧に釣り合った。
(…カエサルへの恩義は、釣り合っている)
そして、彼は、もう一つの天秤へと向き直る。ポンペイウスの天秤だ。
一方の皿に、グナエウス・ポンペイウスへの、遥か昔の、しかし決して忘れることのできるない恩義を乗せる。
まだ何者でもなかった若き日、自分を将校として引き立ててくれたのは、誰あろう「偉大なる」ポンペイウスだった。その恩がなければ、今の自分はなかった。
だが、自分がポンペイウスに返したものを乗せるべき、もう一方の皿は、空っぽのままだった。
天秤は、釣り合っていない。ポンペイウスへの恩義の皿が、重く、重く、沈み込んでいる。
――ならば、自分が立つべき場所は、一つしかない。
たとえ、カエサルが描くローマの未来こそが正しい道だと、心の底から理解していても。
自分は、自らのDignitas(尊厳)に従う。
戦士として、男として、この釣り合わぬ天秤を、水平に戻さねばならん。
未返済の恩義を清算する。それが、ティトゥス・ラビエヌスという男の、唯一の生き方だった。
彼は、誰にも何も告げなかった。カエサルに宛てた、感謝と訣別の言葉を綴った手紙を認めることすらしなかった。
言葉にすれば、その決意が鈍ることを知っていたからだ。
彼はただ、腰に剣を佩くと、誰にも見られることなく自室を出て、南へと向かう門を、一人静かにくぐった。
冬の闇が、ローマ最強の将軍の姿を、静かに飲み込んでいった。
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