第十五章:ルビコンの畔にて
紀元前四十九年、一月。冬の夜空に、凍てついた月だけが青白く輝いていた。
ルビコン川。
その名は、法によって定められた、ガリア・キサルピナとイタリア本土を隔てる、ただの細い川に過ぎない。
だが、その川を軍団を率いて渡ることは、ローマ共和国そのものへの反逆を意味した。
アペニン山脈から吹き下ろす冷たい風が、川面を撫で、まるで運命の女神が糸を紡ぐ音のように、不気味なせせらぎを響かせている。
その川の北岸に、カエサルは立っていた。
彼の背後には、第十三軍団の兵士たちが、まるで石像のように静かな隊列を組んで控えている。
松明の光が、彼らの兜や鎧を鈍く照らし出し、その顔に深い影を落としていた。彼らは、これから自分たちが犯そうとしている大罪の重さを理解し、ただ、総司令官の最後の一言を待っていた。
レビルスは後方の拠点アリミヌムで兵站の全てを管理し、ラビエヌスはガリアに残る主力軍団を率いている。
この歴史的な決断の瞬間に、彼の右腕と左腕であるべき二人の男は、ここにはいなかった。
カエサルは、背後に控える兵士たちの無言の圧力を感じていた。
彼らはただの兵ではない。十年近く、自分と共にガリアの地で血を流し、死線を越えてきた戦友たちだ。
最前列に立つ百人隊長の顔には、アレシアの攻防戦で負った深い傷跡が刻まれている。
その後ろには、まだ髭も生えそろわぬ若い兵士が、槍を握る拳が白くなるほど、固く握りしめている。彼らは、自分を信じている。
自分こそが、彼らに約束された土地と平和な未来を与えられる唯一の人間だと、信じきっている。その信頼が、今は鉛のように重かった。
数日前、ローマから届いた最終通告は、カエサルが抱いていた「脆いが確かな希望」を、木っ端微塵に打ち砕いた。
元老院は、カエサルに軍団の即時解散を命令。従わねば、「国家の敵」と見なす、と。
それは、もはや交渉の余地なき、最後通牒だった。
カエサルは、長い間、川の向こう岸を、その先に広がるローマへと続く闇を、じっと見つめていた。
その横顔に、怒りも、悲しみも、恐れもない。
ただ、一つの時代を終わらせ、新たな時代をその手で創り出そうとする男だけが持つ、神々しいほどの静かな覚悟が満ちていた。
(…ここまでか)
彼の心の中で、最後の自問自答が繰り広げられていた。
元老院の敵たちは、自分のことを独裁者を目指す野心家だと罵る。果たして、そうだろうか。
ほんの数日前まで、確かに希望はあったはずだ。オッピウスたちの尽力で元老院の多数派工作は成功し、内乱は回避されるはずだった。
自分も、その脆い平和を信じ、信頼の証として、たった一つの軍団を率いて南下した。
だが、小カトを中心とする強硬派は、その信頼を踏みにじった。
こちらの恭順の意を、彼らは弱さと断じ、ポンペイウスに全権を委ねるという「元老院最終勧告」を突きつけてきた。
彼らが望むのは、対話ではない。私の破滅、ただそれだけだ。
奴らが、この国が、私から全ての道を奪い、この川以外の選択肢を消し去ったのだ。
カエサルは、今ここにいない者たちの顔を思い浮かべていた。
友を、そして敵を。
ローマで戦う、我が腹心オッピウスとバルブス。
ガリアに残してきた、我が最強の剣ラビエヌスと、最高の頭脳レビルス。
そして、かつては我が娘ユリアの夫であり、今は元老院の剣として立ちはだかる、偉大なるポンペイウス。
我々が夢見た、新しいローマを築くのだ。そのために、この一線を超える。
やがて、カエサルはゆっくりと振り返り、彼を信じてここまでついてきた兵士たちを見渡した。
彼は、全軍に聞こえるように、しかし決して大声ではない、腹の底から響くような声で言った。
「進めば、人類の悲惨。退けば、我が身の破滅」
彼は、再び川へと向き直った。そして、まるで長年の友に語りかけるかのように、静かに、しかし歴史に刻みつけるように、その言葉を口にした。
「賽は、投げられた(アーレア・ヤクタ・エスト)」
カエサルは、その言葉と共に、自ら先頭に立って、冷たいルビコン川の浅瀬へと、その一歩を踏み出した。
その瞬間、張り詰めていた空気が破裂した。一個軍団の雄叫びが、冬の夜空を切り裂く。標準手が、そして百人隊長たちが、次々と川へと飛び込んでいく。
カエサルの心は、静かに燃えていた。
もう、計算は終わった。ここから先は、ただ、自らが作る巨大な歴史の渦に、ローマ全土を巻き込むだけだ。
川の向こう岸、イタリアの地を踏んだ時、カエサルは、自らがもう二度と後戻りのできない場所に立っていることを、はっきりと悟ったのだった。
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