第十四章:カエサルの視点
冬のガリア・キサルピナを、一本の道が、まるで雪原を切り裂く刃のように貫いていた。
その道を、一つの軍団が南へと向かっている。
第十三軍団。ガリアでの長き戦役において、カエサルの指揮下で忠実に戦い抜いた、信頼すべき兵士たちだ。
しかし、彼らの足取りは、これまでのどの進軍よりも軽やかだった。
隊列からは、時折、故郷の歌が漏れ聞こえてくる。故郷に、家族の元へ、生きて帰れる。その希望が、兵士たちの心を温めていた。
その隊列の中ほどで、ガイウス・ユリウス・カエサルは、静かに歩みを進めていた。
彼の周囲には、護衛の兵士たちが分厚い壁を作っているが、彼の心はここにはない。遠いローマの、さらにその先の未来へと飛んでいた。
(…終わったのだな)
八年、いや、それ以上だ。ガリアの森と泥濘の中で、異種族と魔族の鬨の声の中で、彼は戦い続けてきた。
一日として、心休まる日はなかった。
だが、それも終わった。元老院は、こちらの要求を受け入れた。
内乱という、最悪の選択肢は回避されたのだ。カエサルの胸に、久しぶりに純粋な安堵感が広がっていく。
彼は、道端に広がる畑に目をやった。冬枯れの畑だが、そこには人の営みの匂いがあった。ガリアの荒々しい自然とは違う、法と秩序に守られた、ローマの土地の匂いだ。
(そうだ、私はこのために戦ってきたのだ)
ローマを、より強く、より公正な国にするために。
彼は、自らの改革案を思い描いていた。
レビルスがもたらすガリアの莫大な富を、ただ戦費や戦利品として分配するのではない。
ローマ全土に行き渡る新たな街道を建設し、属州に穀倉地帯を整備し、市民には公平な職とパンを与える。
レビルスの「計算」は、その壮大な公共事業の設計図となるだろう。そして、その新しいローマの秩序を守る剣となるのが、ラビエヌスだ。
(…ラビエヌス)
カエサルは、今頃、北の拠点都市でガリア全軍の指揮を執っているであろう、最強の副官の顔を思い浮かべた。
十年以上、常に自分の隣で戦ってくれた男。自分が言葉にする前に、自分の戦術を理解してくれる男。
彼と共に、新しいローマを築く。腐敗した元老院の老人共を一掃し、我々が、ローマの新しい礎となるのだ。その未来図を思うと、カエサルの心は高揚した。
だが、彼は同時に、この平和が、いかに脆いものであるかも理解していた。
小カト。
あの男の、原理原則のためならば国そのものを滅ぼすことも厭わぬ、頑ななまでの正義感。マルケッルスのような、ただ己の家門の栄光しか見えぬ、視野の狭い貴族たち。彼らが、この妥協を心から受け入れたはずがない。
彼らは、必ずポンペイウスを担ぎ出すだろう。
(ポンペイウス…)
カエサルは、かつての盟友であり、娘婿であった男の顔を思い浮かべた。彼は偉大な男だ。
だが、彼は元老院という旧い器の中で、「第一人者」であり続けることを望む。
カエサルは、その器そのものを一度壊し、作り変えようとしている。
そこに、二人の決定的な断絶があった。
だからこそ、カエサルは今、第十三軍団だけを率いているのだ。
もし本気で事を構えるつもりなら、無敵神話を誇る第十軍団を連れてきただろう。
だが、彼はそうしなかった。第十三軍団は、忠実で屈強な、しかし「最強」ではない軍団だ。
これは、元老院への、そしてポンペイウスへの、カエサルなりのメッセージだった。
「私は戦う気はない。法に従い、一市民としてローマへ帰る。武器を置く用意がある」と。
この、あまりにも無防備な軍団こそが、彼が差し出すことのできる、最大の誠意であり、信頼の証だった。
そして、この平和という希望を、現実のものとするための、彼自身の壮大な賭けでもあった。
「閣下」
傍らを歩いていた百人隊長が、誇らしげな顔で言った。
「兵たちの顔をご覧ください。皆、希望に満ちております。閣下が、我々に平和をくださいました」
カエサルは、その言葉に静かに頷き、兵士たちを見渡した。彼らの笑顔は、本物だった。
「ああ。我々は、故郷へ帰るのだ。長い戦いだったが、それもようやく終わった」
カエサルは、そう言って微笑んだ。その心には、未来への楽観も悲観もなかった。ただ、自らの手で、この脆い平和を掴み取ってみせるという、鋼のような意志だけがあった。
彼は、この賭けに勝つつもりでいた。そして、勝てると信じていた。
ラヴェンナの街が、雪景色の向こうに、小さく見え始めていた。
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