第十三章:都の熱狂と狂気
その報せがローマにもたらされると、都は一瞬の静寂の後、熱狂的な歓喜に包まれた。
フォルム・ロマヌムの演壇から、法務官が元老院の決定――カエサルとの妥協案の可決、すなわち内乱の回避――を読み上げると、それを聞いていた市民たちは、まるで神々の奇跡を目の当たりにしたかのようにどよめき、叫び、抱き合った。
その群衆の渦の中心で、マルクス・ウィプサニウス・アグリッパは、隣に立つ親友のオクタウィアヌスと共に、その光景をただ黙って見つめていた。
二人は、その流れに身を任せるように、ローマの街を歩いた。
下町スブッラの安酒場からは、兵役を免れたことを祝う若者たちの陽気な歌声が聞こえてくる。
「カエサルが俺たちにパンを、ポンペイウスが平和をくれたんだ!」
そんな即興の歌が、手拍子と共に響き渡る。パン屋の店主は、客に無料でパンを振る舞い、カエサルとポンペイウスの「英断」を涙ながらに称えている。
誰もが、悪夢から覚めた朝のような、晴れやかな顔をしていた。
アグリッパもまた、その安堵の空気に、自然と口元が緩むのを感じていた。内乱が起きれば、真っ先に徴兵されるのは自分たちのような若者だ。平和は、何よりも尊い。
だが、パラティヌスの丘へ続く坂道を登るにつれて、街の雰囲気は一変した。
壮麗な邸宅の扉は固く閉ざされ、道行く貴族たちの顔には、歓喜の代わりに、屈辱と不安、そして隠しきれない怒りの色が浮かんでいた。
彼らは小声で囁き合い、すれ違うアグリッパたちに猜疑心に満ちた視線を投げかける。
彼らにとって、この妥協は平和ではなく、カエサルという名の独裁者候補に屈した、許しがたい敗北なのだ。
アグリッパは、二つのローマを見た。平和を心から喜ぶ民衆のローマと、権力を失うことを恐れる貴族のローマ。その間には、決して埋めることのできるない、深く暗い亀裂が走っていた。
彼は、軍人の卵として、この光景を別の視点から分析していた。民衆は、軍団を構成する手足だ。彼らの心は、今やカエサルに傾いている。
だが、貴族たちは、軍団を指揮する頭脳だ。彼らの心は、旧き共和政にある。一つの身体に、二つの頭脳があるようなものだ。このような状態で、ローマという巨人は、果たしてまっすぐに歩けるのだろうか。
ふと、道の向こうから、小カトが数人の取り巻きと共に歩いてくるのが見えた。
街の安堵の空気など意にも介さぬ、というように、その顔は怒りとも絶望ともつかぬ厳しい表情で凍りついている。彼は誰とも視線を合わせず、まるで汚れた道を歩くかのように、ひたすら前だけを見据えていた。
彼らが通り過ぎた後には、まるで冬の風が吹き抜けたかのように、冷たい沈黙だけが残った。あの男だけは、決して妥協しない。アグリッパは、背筋に走るかすかな悪寒を覚えた。
やがて二人は、カピトリヌスの丘の、人の少ない一角にたどり着いた。眼下には、熱狂と安堵に包まれたローマの街並みが一望できる。
「…この街は、まるで熱病だな」
アグリッパが、どこかやるせない口調で言った。
「ある者は喜びで、ある者は怒りで、誰もが正気ではないようだ。この熱が、いつかこの街そのものを焼き尽くしてしまわなければ良いが」
「そうだな」
オクタウィアヌスは、静かに頷いた。だが、その声には、アグリッパが期待したような明るさはない。彼は、じっと眼下の街並みを見つめている。
「アグリッパ。今日のローマは、とても美しい。だが、なぜだろうな。見れば見るほど、まるで薄い氷の上に築かれた都のように見える」
「氷…?」
「ああ。誰もが、この平和が本物だと信じたがっている。だから、誰もが足音を忍ばせ、氷を割らないように、慎重に歩いているように見える。だが、氷の下では、まだ暗くて冷たい川が、静かに流れている気がするんだ」
それは、少年らしい、詩的な比喩に過ぎなかったかもしれない。だが、アグリッパは、その言葉に背筋がぞくりとするのを感じた。彼は、親友のその類稀なる直感が、しばしば物事の本質を正確に射抜くことを知っていた。
「…どうすれば、その氷は割れずに済むのだろうな」
「さあな」
オクタウィアヌスは、初めてアグリッパの方に向き直った。
「だが、一つだけ言えることがある。氷が薄いと知っている者ほど、静かに、そして慎重に歩むものだ。本当に危険なのは、氷の存在に気づかず、熱狂して踊り狂っている者たちか、あるいは、その氷を自らの手で叩き割ってでも、川の底にある真実を確かめようとする者たちだ」
その言葉は、先ほど見た市民たちの熱狂と、小カトの凍てついた横顔を、アグリッパの脳裏に鮮やかに蘇らせた。
彼は、改めて眼下のローマを見渡した。市民の歓声、貴族の囁き、そして、それら全てを飲み込む、巨大な都市のうねり。その全てが、危うい均衡の上になりたつ、束の間の幻のように思えた。
眼下で続く市民たちの祝祭の喧騒が、アグリッパの耳には、いつまでも続くとは思えない、儚いざわめきのように聞こえ始めていた。
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