第十二章:脆い勝利、確かな希望
ラヴェンナの冬営地に、その報せが届いたのは、雪が深く積もった日のことだった。
ローマから到着した伝令は、疲労困憊の様子ながらも、その顔は勝利の喜びに輝いていた。
彼は、カエサル、ラビエヌス、そしてレビルスが待つ司令部の天幕に駆け込むと、オッピウスとバルブスの印が押された羊皮紙の巻物を恭しく差し出した。
天幕の中の誰もが、固唾を飲んでカエサルがその封を切るのを見守っていた。この一枚のパピルスが、ローマを内乱の渦に叩き込むか、それとも平和な未来へと導くかを決定するのだ。
カエサルは、冷静にその書面を読むと、静かに顔を上げた。
「…元老院は、我々の要求を呑んだ」
その一言で、張り詰めていた空気が爆発した。
「おおっ!」
「なんと…!」
書面には、オッピウスたちの経済戦争と政治工作が功を奏し、元老院の多数派がカエサルとの妥協案を受け入れたことが記されていた。
カエサルは軍団を解散することなく、次期執政官選挙への立候補が認められる。つまり、内乱は回避されたのだ。
その報せは、瞬く間に冬営地全体へと伝播した。静まり返っていた雪の砦は、一瞬にして歓喜の坩堝と化した。
八年、十年とガリアの地で戦い続けてきた歴戦の兵士たちが、まるで子供のように抱き合い、涙を流して喜んでいる。
彼らが祝しているのは、戦の勝利ではない。戦わずに済んだこと、故郷に、家族の元へ生きて帰れるという、何物にも代えがたい「平和」の勝利だった。
天幕の中では、レビルスが純粋な喜びを感じていた。
(…勝った。論理が、理性が、熱狂と憎悪に打ち勝ったのだ)
彼にとって、この政治的勝利は、自らが信奉する「計算」の正しさを証明するものだった。
血を流す戦争は、最も非効率で、最も不合理な選択肢だ。それを避けられたこと、最も合理的な未来が選択されたことに、彼は深い満足感を覚えていた。
隣に立つラビエヌスの喜びは、さらに激しいものだった。
「やったな、レビルス! これで、もう…迷わずに済む…!」
その声は、安堵のあまり震えていた。彼の肩から、千鈞の重荷が下ろされたのだ。
ポンペイウスへの恩義と、カエサルへの友情。その二つの間で引き裂かれる苦悩から、彼は解放された。
もう、どちらかを選ぶ必要はない。彼は心からの笑顔でレビルスの肩を叩き、陣営の歓声に耳を傾けていた。
その熱狂の中で、カエサルは、静かに、しかし確かに笑みを浮かべていた。だが、その目は、副官たちの純粋な喜びとは少し違う、複雑な光を宿していた。
彼は、喜びに沸く副官たちを下がらせると、ラビエヌスとレビルスにだけ、天幕に残るよう命じた。
「見事な勝利です、閣下! オッピウスたちの手腕は、一個軍団にも勝りますな!」興奮冷めやらぬラビエヌスが言う。
「ああ、見事な勝利だ」
と、カエサルは頷いた。
「だが、ラビエヌス。これは、戦の終わりではない。本当の戦いの始まりだ。これまでは剣と魔法の戦いだったが、これからは、法と言葉、そして人の心そのものを奪い合う戦いが始まる」
彼の視線は、遠いローマの空を見据えていた。
「小カトやマルケッルスのような男たちが、この妥協案を心から受け入れたと思うか? いや、彼らは決して諦めん。だが、元老院の多数派は、我々との戦を望まなかった。それが、我々が得た、脆いが確かな『希望』だ。彼らは、カエサルとの戦争という『恐怖』と、カト派の原理主義という『狂気』を天秤にかけ、前者を選んだに過ぎん。恐怖で得た勝利は、更なる恐怖でしか維持できん」
カエサルは、地図上のラヴェンナからローマへと続く道を、指でなぞった。
「私は、第十三軍団のみを率いて、南へ向かう。残りの軍団は、ガリアの守りとして、ここでお前たちに預ける」
その言葉に、レビルスとラビエヌスは息を呑んだ。たった一つの軍団。あまりにも無防備だ。
「閣下、それはあまりにも危険です! ローマには、ポンペイウス閣下の軍団が…」
ラビエヌスの制止を、カエサルは手で遮った。
「だから良いのだ、ラビエヌス。私は、彼らに示すのだ。『私は戦う気はない。法に従い、一市民としてローマへ帰るのだ』と。これが、私が彼らに差し出すことのできる、最大の誠意であり、信頼の証だ。元老院の多数派が我々に与えてくれた、この脆い平和という名の糸を、現実のものとして手繰り寄せるための、私なりの賭けなのだよ」
カエサルの目には、未来への楽観も悲観もなかった。ただ、自らの手で平和を掴み取ろうとする、鋼のような意志だけがあった。
レビルスとラビエヌスは、主君のその覚悟の前に、もはや何も言うことができなかった。
彼らは、脆い勝利の上に築かれた確かな希望を胸に、主君と共に、未知なる戦場へと歩みを進める覚悟を決めたのだった。
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