第十一章:共有された未来図
その夜、カエサルの私室には、燃え盛る薪のはぜる音だけが響いていた。
ガリアの冬の凍てつくような空気が、天幕の厚い革を隔ててなお、肌を刺す。
カエサルは、ガリア全土とローマ市街が描かれた巨大な地図を前に、静かにワインを口に含んだ。
壁には、軍事地図だけでなく、新しい植民市の設計図や、街道、水道橋の建設計画案を示す羊皮紙も無数に貼られている。
そこは、単なる将軍の部屋ではなく、未来の国家を夢見る建築家の仕事場でもあった。
その前に、彼が最も信頼を置く二人の男――ティトゥス・ラビエヌスと、ガイウス・カニニウス・レビルス――だけが座ることを許されていた。
宴の後の、あまりにも個人的で、密やかな会合。レビルスは、これから語られる言葉が、自分たちの、そしてローマの運命を決定づけるものになることを予感し、緊張に背筋を伸ばした。
やがて、カエサルは重々しく口を開いた。
「ラビエヌス、レビルス。お前たちには、私がなぜ戦うのか、その真意を話しておかねばならん」
それは、いつものような戦術や戦略の話ではなかった。一人の男が抱く、国家の未来像そのものだった。
「今のローマは、病に冒されている。元老院は、己の権益を守ることしか考えぬ老人共の巣窟と化した。市民は、目先のパンと見世物にうつつを抜かし、国家への責任を忘れた。そして軍団は…」
カエサルは、一度言葉を切った。
「軍団は、国家のものではなく、将軍個人の私兵となりつつある。それは、ポンペイウスも、そしてこの私も例外ではない。この病を放置すれば、ローマはやがて内側から腐り落ち、自壊するだろう」
カエサルの声は、静かだったが、その一言一句に凄まじい意志の力が込められていた。
「私が目指すのは、王ではない。ましてや、独裁者でもない。私が作り上げたいのは、一つの完璧な『機構』としてのローマだ。血筋や家柄ではなく、才能ある者が正しく評価され、登用される国。属州の民も、ローマ市民と同じ法の下で公平に扱われる国。飢える者がなく、法を犯す者が罰せられる、効率的で、公正な国家。レビルス、君の計算のように、寸分の狂いもなく機能する、新しいローマだ」
その言葉を聞いたレビルスの心は、打ち震えていた。畏怖と、そして歓喜に。
(…なんと合理的で、美しい思想だろう)
彼の頭脳は、カエサルのビジョンを、巨大な計算式へと変換していた。
属州民も市民も、貴族も平民も、全てが等しい変数として、国家という方程式の中に組み込まれる。
非効率な伝統や、属人的な判断を排し、ただ、論理と理性だけが支配する世界。レビルスは、この男の描く未来のためならば、どんな計算も厭わないと、改めて心に誓った。
だが、ラビエヌスは違った。彼は、その理想を実現する過程で必然的に生まれるであろう、血の匂いを嗅ぎ取っていた。
「…その未来図の中に」
ラビエヌスは、絞り出すように言った。
「ポンペイウス閣下の居場所は、あるのですか」
カエサルの表情が、わずかに翳った。
「ポンペイウスは偉大な男だ。だが、彼は旧き良きローマの守護者だ。私がその腐敗そのものを破壊しようとする限り、彼はいずれ、私の前に立ちはだかるだろう。彼自身の、Dignitas(尊厳)のために」
カエサルは、そこで一度言葉を切ると、地図上のローマを指差した。
「だが、勘違いするな、ラビエヌス。私が第一に目指すのは、彼との戦ではない。オッピウスたちが進めている多数派工作が成功すれば、私は合法的に元老院の実権を握れる。そうなれば、ポンペイウスと事を構える必要はない。**彼という『偉大なる伝統』と、私という『新たなる改革』。その二頭が、ローマという車を引いていく。**それこそが、血を流さずにこの国を救う、最も合理的で、私が心から望む未来だ」
その言葉は、ラビエヌスの心を激しく揺さぶった。
ポンペイウスへの恩義と、カエサルへの友情。
その両方を損なうことなく、ローマの未来を救える道がある。
それは、暗闇の中で彼が探し求めていた、唯一の希望の光のように思えた。彼は、その輝かしい未来像に、必死に手を伸ばしたいと願った。
レビルスは、そのカエサルの言葉に、論理的な正しさと美しさを見出した。戦わずして勝つ。それこそが、計算の極致だ。
しかし、ラビエヌスの表情は晴れない。
彼は、その「あり得たかもしれない未来」の脆さを、誰よりも理解していた。カエサルの論理は完璧だ。
だが、人の心は論理だけでは動かない。
小カトの頑ななまでの憎悪、ポンペイウスの「第一人者」としての矜持。そういった計算不能な感情が、この最も美しい解決策を、いずれ粉々に打ち砕いてしまうのではないか。
カエサルが提示した、血の流れない輝かしい未来図。レビルスはそれを実現可能な計算式として受け入れ、ラビエヌスはそれを叶わぬかもしれないと知りつつも、必死に信じようとしていた。
この夜、三人が共有した希望に満ちた未来図が、やがて来る内乱の悲劇を、より一層色濃く浮かび上がらせることになるのを、彼らはまだ知らなかった。
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