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内乱記異聞  作者: 奪胎院
序章:内乱前夜

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第十章:父と子の食卓

その夜、ローマの下町スブッラの一角にある集合住宅インスラの一室で、マルクスは硬くなったパンを無言でちぎっていた。


かつて、グナエウス・ポンペイウスの下で百人隊長を務めたこの男の部屋は、あまりにも質素だった。


壁には、東方での戦役で受けた傷跡のように、ひび割れが走っている。


そこに掛けられた一振りの古びたグラディウスだけが、この部屋の主がローマのために血を流した兵士であったことを、静かに物語っていた。


窓の外からは、ローマの喧騒が絶え間なく聞こえてくる。


だが、その音は、この部屋の重い沈黙を破ることはできない。マルクスは、節くれだった自分の手を見つめた。


かつては五十ポンドの盾を掲げ、敵の突撃を支えた手。


今は、ただパンをちぎることしかできない。約束されていたはずの、退役後の土地。


妻と静かに暮らすはずだった、小さな農園。


その夢は、元老院の空約束と共に消え、妻は病で世を去り、自分はこうして、ローマの片隅で息子の厄介になっている。


向かいに座る一人息子のルキウスが、我慢しきれないといった様子で口を開いた。


「父さん、聞きましたか? 隣の瓦職人のセクストゥス、カエサル閣下の公共事業で仕事を得たそうです。支払いは、あの新しい銀貨で。おかげで、妹の嫁入り支度ができると喜んでいました」


マルクスの眉が、ぴくりと動いた。


「…カエサルの金か。ガリアの血で鋳造された、重たいだけの銀塊だな」


「なぜ、そんな言い方をするのです!」


ルキウスの声が、思わず大きくなる。


「あの金のおかげで、街には仕事が増え、多くの人間が救われている。なのに、父さんはいつもそうだ。カエサル閣下の功績を、決して認めようとしない」


マルクスは、ちぎったパンを赤ワインに浸しながら、低い声で言った。


「ルキウス、お前にはまだ分からんのだ。我々兵士が忠誠を誓うのは、個人ではない。ローマと、その伝統を守る元老院だ。俺は、ポンペイウス・マグヌス(偉大なるポンペイウス)と共に東方を転戦し、その目で本物の英雄を見てきた。彼は、ローマのために戦い、その勝利の全てを国に捧げた。個人の利益のために、法を捻じ曲げるような男ではない」


彼の脳裏には、遥か昔の戦場の光景が蘇っていた。


敵の猛攻で戦列が崩れかけた時、ポンペイウス自らが先頭に立ち、兵士たちを鼓舞した、あの日のことを。


彼は、我々と同じ泥にまみれ、同じ固いパンを齧った。だからこそ、我々は彼に命を預けられたのだ。


その言葉に、ルキウスの顔が怒りで赤く染まった。


「国に捧げた? その国は、父さんに何をしてくれましたか! 十年以上も命を懸けて戦った父さんが、約束されたはずの土地も得られず、この薄暗い部屋で硬いパンを齧っている! その間、父さんが守った元老院の貴族たちは、東方の富で新しい別荘を建てているというのに!」


ルキウスは、テーブルを拳で叩いた。食器が、がちゃりと音を立てる。


「母さんが病気になった時、父さんの『忠誠』は薬を買ってくれましたか? ポンペイウス閣下の『名誉』は、俺たちにパンをくれましたか? 答えは否だ! 父さんが戦場で得た栄光は、今や壁の飾りでしかない!」


彼は、壁の剣を睨みつけた。


「カエサル閣下は違う! 彼は、戦った兵士には必ず報いると約束している! 土地を与え、金を与える! それが正義でなくて、何が正義だと言うんですか! 父さんが忠誠を誓うべきは、父さんの人生を食い物にした元老院やポンペイウスではない! 兵士の生活を第一に考える、カエサル閣下の方だ!」


「お前はカエサルの気前の良さしか見ていない!」


マルクスも声を荒げた。


「あの男の残忍さが見えんのか! 降伏したガリア人の両腕を切り落としたという噂を聞かなかったのか! そのような男が、ローマの優しい支配者になるとでも思うのか! 奴は忠誠を金で買うのだ。それは、真の忠誠を知らぬ者のやることだ。奴は、独裁者になるぞ!」


「飢えさせる共和国と、パンをくれる独裁者! 俺なら後者を選ぶ!」


ルキウスは叫び返した。


「俺たちは、もう何年も、借金と貧しさという独裁の下で生きてきたんだ! それと何が違うんですか!」


マルクスは、言葉に詰まった。息子の言うことは、痛いほど真実だったからだ。


彼は、自分の人生そのものを否定されたような気持になった。壁に掛けられた剣が、まるで自分を嘲笑っているかのように見える。


あの剣を振るい、ローマのために戦った日々は、一体何だったのか。


「…それでも、だ」


マルクスは、絞り出すように言った。


「それでも、俺はポンペイウス閣下に誓った。その忠誠は、土地や金で計れるものではない。それは、俺の…Dignitas(尊厳)の問題なのだ」


「国家への忠誠か、家族の生活か」――


その二つの間で、マルクスの心は引き裂かれていた。


彼は、息子に正しい道を教えたいと願いながら、その「正しい道」が、自分たちを貧困から救ってはくれないという厳しい現実を、誰よりも理解していた。


父と子の間の食卓には、重い沈黙だけが支配していた。


それは、やがてローマ全土を二つに引き裂くことになる、兵士たちの根深い苦悩の、ほんの小さな縮図に過ぎなかった。

最後までお読みいただき、ありがとうございます!

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