第十五章:賽は未だ盤上に
オクタウィアヌスの邸宅からの帰路、カエサルの私室は、静かな思索の空気に満たされていた。
今日の宴は、単なる祝いの席ではなかった。
カエサルという巨大な恒星の周りを、これから巡ることになるであろう、新たな惑星たちの軌道を見極めるための、極めて重要な観測の場だったのだ。
窓の外には、七つの丘に抱かれたローマの夜景が、無数の灯りとなって広がっている。
世界の頂点に立つ都市の輝き。
だが、その光は、カエサルの瞳には、まだどこか儚く、不確かに映っていた。
報告を終えたオッピウスとバルブスが、主君の次の言葉を待っている。
カエサルの隣には、いつものように副官レビルスが、今日の出来事を脳内で反芻しながら控えていた。
この部屋にいるのは、わずか四人。
だが、彼らこそが、今やローマという巨大な船の、真の舵を握る者たちだった。
長い沈黙を破ったのは、カエサル自身だった。
彼は、窓の外の闇を見つめたまま、独り言のようにつぶやいた。
「わかっている。ゼラでの勝利は、一つの戦いに過ぎん。ファルナケスは、ポンペイウスの影に怯える亡霊のようなものだった。本当の敵は、まだ地中海の向こうで、牙を研いでいる」
彼は、ゆっくりと振り返り、三人の顔を順に見つめた。
「本当の勝利は、アフリカを完全に我々の支配下に置き、ラビエヌスと小カトの息の根を完全に止めるまでは、訪れることはない」
その言葉に、部屋の空気は一層張り詰めた。
そして、その張り詰めた空気を和らげるかのように、カエサルはふと、全く違う光をその目に宿した。
それは、今日の観測結果を吟味するような、鋭く、それでいてどこか楽しむような光だった。
「して、我が甥の友人たちはどうだった?未来のローマを担うかもしれない、若き獅子たちの顔を、君たちの目にはどう映ったか、聞かせてもらおうか」
その問いに、最初に答えたのは、影の世界に生きる男、オッピウスだった。
「マエケナス、と申しましたか。あの若者は…危険な男ですな」
「ほう、危険とは?」
カエサルの問いに、オッピウスは頷いた。
「彼は、民衆の心理を実によく見ている。先程、私が探りを入れたところ、『民は秩序を求めるが、同時に強大すぎる個人を恐れてもいる』と、その矛盾を正確に言い当てました。人の心の光と影の両面を、あの若さで既に見抜いている。我々と…同じ、影に生きる者の匂いがいたしますな」
バルブスも、重々しく同意した。
「ええ、将来、我々の仕事を継げる器かもしれませぬ。良くも…悪くも」
次に、カエサルはその視線を、自らの右腕であるレビルスへと向けた。
「君はどうだ、レビルス。君が言葉を交わしたという、アグリッパという青年は」
レビルスは、庭園で会った青年の、あの真っ直ぐな瞳を思い浮かべていた。
「アグリッパは…まだ戦場の人間ではありません。ですが、その頭脳は、既に将軍のものです」
レビルスは、淡々と、しかし確信を込めて言った。
「彼は、ゼラの戦いの結果ではなく、その裏側にある兵站の数字に興味を示しました。いかにして、あのような速度で軍を動かし、補給を維持したのか、と。勝利を、幸運や勇気ではなく、計算と事実の積み重ねとして理解しようとしている。あの知性と探求心があれば、一度戦場を経験するだけで、恐るべき速度で成長するでしょう。磨かれる前の、極めて硬質なダイヤモンドの原石です」
カエサルは、その言葉に、深く頷いた。
レビルスの評価が、最も信頼に足るものであることを知っていた。
そして、彼は最後に、今日の主役であった甥の姿を思い浮かべ、まるで自分に言い聞せるように、ゆっくりと言った。
「人の心を操る者と、戦場を支配する者か…そして、オクタウィアヌスは、その全てを使いこなすだろう」
その声には、以前のような冷徹さへの評価とは違う、どこか複雑な響きがあった。
「あの子は、この私をよく見ている。私の行動の本質が、元老院を屈服させることでも、民衆に媚びることでもなく、『決断の不在』というローマの病を治すことにあると、正確に見抜いていた。若者らしい、見事なまでの心酔と憧れだ」
カエサルは、一度言葉を切った。
「だが、同時に、私はあの子の目の中に、深い渇望を見た。自らの虚弱な肉体では、私と同じように戦場で武勲を立てることができないことへの、燃えるような、もどかしさだ。あの子の野心は、そのもどかしさを原動力として、我々が思いもよらない形で、磨かれていくだろう。戦場ではない場所で、自分だけの戦い方を見つけ出すはずだ。…それがどのようなものになるのか、この私にも、まだ計りきれん」
その言葉は、部屋にいた三人の男たちの心に、重い沈黙を落とした。
カエサルという、歴史上、比類なき怪物が、自らの血を引く若者に、自分とは違う道を進むであろう、底知れない可能性を認めたのだ。
レビルスは、窓の外に広がるローマの夜景に、再び目をやった。
無数の灯りは、今や、無数の駒のように見えていた。
そして自分もまた、その巨大な盤上の、一つの駒に過ぎない。
カエサルという巨大な賽は、まだ盤上を転がり続けている。
そして、その賽の目の先には、今日、その片鱗を垣間見た、彼らですらまだ計算できない、新たな時代の役者たちが静かに控えていた。
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