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埋れた青春  無冠の拳豪 チャーリー・バーリー(1917-1992)

作者: 滝 城太郎
掲載日:2025/10/05

1982年に「ゴング」誌で、著名評論家が個人的に歴代ミドル級十傑を選び、その得点の集計で歴代最強を決める企画があったが、チャーリー・バーリーを選んだのは一人もいなかった。しかし、それはおそらくバーリーの全盛期を見たことがなかったからで、今日のように昔の名選手の試合映像がYoutubeなどで容易に見ることができれば、かのエディ・ファッチが”最強”と推したバーリーは必ず上位に選ばれるだろう。

 チャーリー・バーリーは世界的名トレーナー、エディ・ファッチが「私が見てきた中で文句なしに最高のオールラウンドボクサー」と激賞する天才的名選手である。

 ひとえに「パウンド・フォー・パウンド・ナンバーワン」といっても一部の評論家の主観やファン投票で選ばれたものは必ずしも額面どおりに受け取れないところがあるが、二十一人もの世界チャンピオンを育て、史上最高のトレーナーの声も高いエディ・ファッチの言葉となると全く重みが違う。

 エディはオールタイム・パウンド・フォー・パウンド・ナンバーワンにしばしば名が挙がるモハメド・アリを倒すことに心血を注ぎ、ジョー・フレージャーやケン・ノートンをはじめとするアリに勝利した五人のボクサーのうち四人をその門下から出しているほど研究熱心な戦略家である。

 そのエディがアリ以上に評価しているバーリーの名がボクシング史の中でずっと埋れてきたのは、オールタイム・パウンド・フォー・パウンド・ナンバーワンの座をアリと分け合っている伝説の男、シュガー・レイ・ロビンソンの影に隠れていたからである。

 アリは新旧の同級世界チャンピオン八名に完勝したのを含め、同時代のライバルをことごとく打ち破ってきたが、ロビンソンはそうではなかった。新旧のチャンピオンをほぼ総なめにしながら、ただ一人、チャーリー・バーリーだけは避けてきた。バーリーが同じ階級の世界ランキングに十年近く居座っていたにもかかわらずである。

 現役時代のロビンソンは「チャーリーには俺は強すぎるよ」と取り合わず、引退後は「あの時俺はチャーリーをなめていた(つまり戦う価値がない)」と弁解していたが、エディほどの目利きがスキルの高さに驚愕したバーリーのボクシングを観て、格下すぎると一笑に付したとは考えにくい。

 確かに全盛期のロビンソンはボクシング界の太陽であり、バーリーは月のような存在に過ぎなかった。

しかし、もし太陽と月が天空で交差すれば、太陽は月に覆い隠されていたかもしれない。


 チャーリー・バーリーはペンシルバニア州ベッセマーに黒人炭鉱夫の父とアイルランド生まれの白人の母との間に生まれた。一九二五年にピッツバーグに転居し、地元の少年団に入ってからボクシングを始めたところ、いくつものアマチュアタイトルを獲得し、一九三六年のベルリンオリンピック出場候補の一人にまでなったが、黒人と白人のハーフという人種的問題で出場は叶わなかった。

 代わりに同時期にスペインのバルセロナで行われることになっていた「Worker’s Game」という国際大会のメンバーに選出されたものの、渡欧後にスペイン内乱が勃発したため、大会中止となった。ツキに恵まれなかったバーリーはこれを機にプロ転向を決意する。


 バーリーにとっての最初の難敵は「反則王」フリジィ・ジビックだった。

 一九三八年三月二十一日、プロ入り一年半足らずにもかかわらず、七十戦以上のキャリアを持つウエルター級きってのダーティーファイターと互角に戦ったバーリーは惜しくもスプリットで敗れたが、三ヶ月後には僅差でリベンジを果たし、その精微を極めたテクニックを観客に印象づけた。

 バーリーのボクシングスタイルは一見するとオーソドクスで地味だが、相手との距離は常に計算されていて、相手がちょうど一歩だけ踏め込まなければ届かない位置を保っていた。そこからだとノーモーションで打っても当たらないため、相手はステップインするが、その歩幅分だけバックステップするバーリーを捉えることができない。

 そこからさらに連打で追い詰めようとしても、踏み込んだ足に重心が乗った状態では、直線的に下がらずピポットで左右に素早く回りこむバーリーにクリーンヒットを浴びせることは容易なことではなかった。しかも防御するバーリーの方は相手との距離を常に計算しているため、空振りを誘っておいてからの反撃も速く、深追いは危険だった。

 ここが華麗でダンサブルなフットワークを使うロビンソンやアリとの大きな違いである。ストライドが大きくスピードも速いロビンソンやアリは、パンチを避ける動作としては最も安全で連打も浴びにくい半面、重心が後足にあり相手との距離もかなり開いているため、そこから腰の入ったパンチは打てないうえ、運動量が多くスタミナのロスにもつながる。

 逆にバーリーは最小限の動作でパンチを避けることに徹しており、重心も前足に乗せているため、相手の攻撃中でさえ隙さえあればいつでも強いパンチを見舞うことができたのだ。

 もちろん、若き日のアリやウィルフレド・ゴメスのように相手に正対したまま動体視力だけで相手のパンチを見切るのが最も効率の良い防御であることは言うまでもないが、これだと年齢と共に防御勘が衰えてくるにつれ被弾率は高くなる。アリはそれが原因で引退後にアルツハイマーを煩い、選手生活晩年のゴメスはころころと倒されるようになった。

 身体の中心線から急所をずらして斜めに構えるところまで計算づくのバーリーは、防御動作がシンプルであるがゆえに、選手生活の晩年でさえもナックアウト負けはおろか、連打で棒立ちになることさえほとんどなかったのである。


 攻撃方法も実にシンプルで、左ジャブからボディに右ストレート、相手が下がれば左ボディアッパー、右フックというふうに上下左右に相手の視線を散らしながら打ち分けた。またフェイントも巧く、コンビネーションの中にもダミーパンチを混ぜているため、カウンターパンチャーも的が絞り切れなかった。

 相手のスタイルに合わせてボクシングを変えられるロビンソンやアリとは対照的に、かたくなまでに自分のスタイルを貫こうとしたバーリーは派手さはなくとも堅実性においては前者を越えているといっていいだろう。エディ・ファッチにとっては、鉄壁の防御と高いKO率を両立させたバーリーのスタイルこそがボクサーの完成形に映ったのかもしれない。

 

 ジビックを破った二ヶ月後(八月二十二日)、ココア・キッドを十五ラウンド判定に下してカラード・ウエルター級チャンピオンになったが、かつては白人から対戦を拒まれた強豪有色人選手のために設けられたこのカラードタイトルも、黒人のヘンリー・アームストロングがこの年の三月に世界ウエルター級王座を射止めると、その存在意義がなくなってしまった。しかもアームストロングは全階級を通じてもトップクラスの人気を博していたため、バーリーを最後にカラードタイトル戦の廃止が決定した。

 カラードタイトルと決別したバーリーは、十一月二十一日に後の世界ミドル級チャンピオン、ビリー・スーズに圧勝して世界四位にランクされると、一九三九年七月十七日にはジビックを左手一本であしらってみせ、事実上のウエルター級頂上決戦に名乗りをあげた。

 ところが、これまでいかなるチャレンジャーの挑戦も返り討ちにしてきた鉄腕三冠王も、バーリー戦だけは躊躇していた。これはバーリーがマネージャーを短期間に次々と変えていったことから想像するに、マネジメント上の不手際も少なからず影響しているだろう。当時のアームストロングと言えば、ヘビー級のジョー・ルイスと人気を二分するほどのスターだけに、高額なファイトマネーの準備から大物プロモーターとの交渉などそれなりの人脈を持っていなくてはタイトルマッチの契約などそう簡単にできるものではないからだ。

 その点、ジビック陣営はバーリーを差し置いてまんまと挑戦権を握ったばかりか、よもやの番狂わせでアームストロングの王座まで奪っていった(一九四〇年十月四日)。

 こうなってしまうとバーリーを苦手とするジビックがタイトルマッチに応じてくれるわけもなく、ただチャンスを模索する日々を過ごしてゆくほかはなかった。そのうっぷんを晴らすかのように、ジビックがチャンピオンになってから一年半の間に二十試合もこなしたバーリーの戦績は二十勝〇敗(十五KO)と素晴らしいもので、世界ランキングも一位になった。

 

 バーリーの不運は続く。

 ジビックを破って新チャンピオンになったフレディ・コクランが海軍に入隊したため、世界ウェルター級王座は第二次世界大戦終了まで凍結されてしまったのだ(コクランの初防衛戦は一九四六年)。

 仮に一階級上げたとしても、自分が一蹴したビリー・スーズに完敗したことがあるトニー・ゼ-ルがチャンピオン(ミドル級)では、挑戦に応じてくれる可能性は低い。しかもゼールまでが海軍に入隊してたことで中量級は開店休業状態になった。

 世界挑戦はしばらくお預けとなったバーリーが臨んだ久々のビッグマッチが、エザート・チャールス戦(一九四二年五月二十五日)だった。

 第二次大戦後に世界ヘビー級チャンピオンとして八度もの防衛を果たすチャールスは、身長は一八五センチあったがデビュー当時は痩せぎすのミドル級だった。とはいえこの階級では破格の強打者であり「シンシナチ・コブラ」の異名を取っていた。

 それほどの強敵相手にもかかわらず、下馬評ではバーリーが圧倒的に有利とされたのは、彼のディフェンス技術とパンチ力は重量級にも通じると思われていたからである。

 中量級では無敵の感があったバーリーのスパーリングパートナーはヘビー級の強豪ハリー・ボボが務めており、一九三センチの巨漢であるボボはジョー・ルイスといい勝負ができる器だったことから、バーリーも自信があったのだろう。事実、バーリーのパンチは後の世界ヘビー級チャンピオン、ジャージー・ジョー・ウォルコット(当時はライトヘビー級)をスパーリングでKOするほどの威力だった。

 ところがさすがのバーリーもこの時ばかりは体格差に圧倒され敗北を喫してしまう。一ヶ月後の再戦(六月二十九日)はチャールスの地元シンシナチのヒッキーパークの観客動員記録を更新するほどの人気を呼んだが、またしても壁は厚かった。

 チャールスに連敗したことでケチが付いたのか、同年はスランプに陥り四つの黒星を喫したが、一九四三年に入ると、ミドル級世界ランカーのジャック・チェイスを一方的に下すなど四勝〇敗一引分と調子を取り戻し、世界二位の座をキープした。当時の一位はシュガー・レイ・ロビンソンに初黒星をつけたジェイク・ラモッタだったが、彼もまたバーリーとの対戦には消極的だった。

 チャンピオン不在の一九四四年も八勝〇敗と好調なバーリーにとって選手生活の中で最も印象的な試合といっても過言でないのが、四月二十一日のアーチ・ムーア戦である。

 ボクシング史上最多KO記録を持つKOキングのムーアは、当時まだ無冠ながら六〇勝八敗(四十七KO)の戦績が示すとおり、その高いKO率に対戦相手が恐れをなしバーリーと同じく不遇をかこっていた。

 ライトヘビー級とミドル級の実質的王者同士の対決は、バーリーがチャールスを攻略できなかったことから、ベストウエイトがウェルターのテクニシャンにリアルライトヘビーの強打者は荷が重いと見られていたが、ハリウッドのリジョンスタジアムに詰めかけた観客が目撃したのは「オールド・マングース」の異名を取るムーアがコブラの猛毒でのたうちまわる姿だった。

 独特のクロスアームブロックでボディと顎を固めてから相手に対峙するムーアは、そのガードポジションから放つショートブローとカウンターのタイミングが絶品で、ハードパンチャーながら迎撃技術にこそその真価があったが、バーリーの速く正確なジャブにバランスを崩され、追撃弾の餌食となった。

 一、三、四、八ラウンドと四度ものダウンを喫し(八ラウンドはスリップ気味)KO負けを免れるのがやっとだったムーアは、生涯対戦した中で最も手強いボクサーの一人だったというバーリーのことを「脂よりもつるつると滑り、動作が蛇のようだった」と表現している。


 やがて戦争が終わり、チャンピオンたちもリングに戻ってきたが、案の定誰もバーリーとの対戦には応じてくれなかった。ロビンソンとは一九四六年に仮契約までこぎつけたが、バーリーのマネージャーの奔走虚しく、ファイトマネーが期限までに調達できずにキャンセルとなった。

 戦後のバーリーは副業として市の清掃係も務めていたが、次第にボクシングに対する情熱を失ってゆき、副業だけでも十分に生活のめどが立つようになったのを機に引退を決意した。

 引退の前年(一九四九年)には、防衛戦のためにアメリカに初上陸した世界ミドル級チャンピオン、マルセル・セルダンとスパーリングで対戦しているが、打たれまくったセルダンがジムから逃げ出したという逸話が残っているほど最後まで衰えの兆しは全く見えなかった。


 もしトニー・ゼールがバーリーとの対戦に応じていたとしたら、ゼール対グラジアノの歴史的な三連戦は実現せず、ロビンソンもミドル級でつまずき、あれほどの輝きを見せることはなかったかもしれない。

 ボクシング界全体の隆盛を考えるならば、グラジアノ、セルダン、ロビンソンのように個性豊かでスター性にも秀でたボクサーを中心としたドリームマッチが開催された方が、見かけも性格も地味なバーリーがその均衡を崩すよりも望ましい方向性だったと言えそうだ。

 バーリーの追及した芸術的なボクシングは一種のハイカルチャーであり、大衆受けするサブカルチャーに成りえなかったことに彼の悲劇があった。 生涯戦績 83勝12敗(50KO)

ウエルターからミドルがベストウエイトのバーリーは、ライトヘビー級屈指のナックアウトアーティストであるアーチ・ムーアを一方的に叩きのめしたばかりか、ヘビー級チャンピオンにまでなったチャールスやウォルコットとも互角に打ち合える力量の持ち主だった。全盛期のフロイド・メイウェザーといえどもベテルビエフ(元ライトヘビー級統一王者)やクルーザー級時代のウシクとの対戦は御免被りたいところだろう。メイウェザーは上の階級のボクサーをスピードで翻弄できるかもしれないが、パンチ力はウエルター級でも平均値がいいところで、私は体重差があってもKOを狙えるバーリーの方がよりパーフェクトに近いと思う。


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