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短編集

雨宿りの喫茶店

作者:

 午後三時、突然の夕立が街を襲った。

 黒々とした雲が商店街の上空を覆い、稲光が空を裂く。人々は慌ただしく傘を広げ、あるいは店先へと駆け込んでいった。


 佐伯は傘を持っていなかった。取引先からの帰り道、空が急に暗くなった時点で嫌な予感はしていたが、案の定の土砂降りである。

 スーツの肩に大粒の雨が打ちつけ、瞬く間に滲んでいく。濡れた書類鞄を抱え、彼は近くの古びた喫茶店のドアを押した。


 カラン、と控えめなベルが鳴る。

 外の喧噪と隔絶されたその店内は、静かに時が止まっているかのようだった。木目のテーブル、古いソファ、壁際に並んだ古雑誌。カウンターの奥では年配のマスターが新聞をめくっている。

 雨の音が遠くで響き、コーヒーの香りがふわりと漂った。


 佐伯は胸ポケットのハンカチで額の雫を拭い、窓際の席に腰を下ろした。

 濡れたスーツに少し気恥ずかしさを覚えながら、メニューを開く。ブレンド、アメリカン、紅茶、ナポリタン……昭和の香りを残す喫茶店の定番。

 彼がブレンドを注文し終えたとき、ふと視線が隣のテーブルへ吸い寄せられた。


 そこに――忘れるはずのない横顔があった。


 長い髪を後ろで緩くまとめ、細い指でカップを持ち上げる女性。

 視線が合った瞬間、彼女は一瞬目を見開き、そして小さく笑った。

「……久しぶりね」


 美奈。

 七年前、互いに二十代半ばで別れを選んだ恋人。


 佐伯の胸は一瞬にして騒がしくなった。

 彼女は変わらない。いや、確かに時の流れを纏ってはいる。頬の線は落ち着きを帯び、瞳の奥に静かな光を宿している。だが、その笑みは昔と同じだった。


「偶然だな。こんなところで」

「ええ。でも、偶然って案外必然かもよ」


 その言葉に、心の奥が不意にざわめいた。

 彼女は何を思ってそう言ったのか。


 コーヒーが運ばれてくるまでの短い間、二人の間にはぎこちない沈黙が漂った。

 やがて、カップから立ちのぼる湯気を見つめながら、佐伯は口を開いた。

「……元気だったか?」

「まあね。あなたは?」

「仕事ばかりさ。東京に出てからは、休む暇もなくて」

「相変わらずね。昔から、仕事にのめり込むと周りが見えなくなる」


 軽く笑いながら言う美奈の声には、とげはなかった。むしろ懐かしさが滲んでいた。


 ――昔から。


 胸の奥に、別れの記憶が蘇る。

 あの頃の自分は、仕事に全てを注いでいた。出世、成果、評価。そればかりを追いかけて、彼女の気持ちを顧みる余裕などなかった。

 やがて小さな溝は深い亀裂になり、最後に美奈は静かに言ったのだ。

「一緒にいても、孤独を感じるの。だから、もう終わりにしましょう」


 佐伯は抵抗できなかった。自分の選択の結果だったから。


 目の前の美奈は、今はもう過去の人。

 そう分かっているのに、胸の奥が軋む。


「結婚は?」佐伯は口をついて出た。

「したわ。でも……もうしてない」

 一瞬、彼女の瞳が曇った。

 その短い言葉に、七年間の重みが潜んでいるように思えた。


「そっちは?」

「いや、まだだ。気づけば、もうこんな年齢だ」

 二人は苦笑し合った。


 会話はゆっくりと進んだ。仕事のこと、家族のこと、そして互いの近況。

 ときおり外の雨音が強まり、沈黙をやさしく覆った。


 佐伯はふと、自分がどれほど彼女を覚えていたのかを思い知った。コーヒーの飲み方、笑うときの口元の動き、指先の仕草――すべてが心の奥底に刻まれていた。


 やがて雨脚が弱まり、窓越しの景色にわずかな光が射し込んだ。

 時計の針は、いつの間にか一時間近く進んでいた。


「そろそろ、行かなきゃ」

 美奈は席を立ち、傘を開いた。

 その動作さえも、美しく懐かしかった。


 佐伯の口の中で、言葉が渦を巻いた。

――また会おう、と言いたい。

――やり直そう、と言いたい。

 だが、声にはならなかった。


 七年という歳月は、あまりに長い。互いに背負うものが増えすぎた。

 彼女はもう、自分の過去だけの存在ではない。


 ガラスに残る雨粒を見つめながら、佐伯はただ心の奥で彼女の背中を焼き付けた。

 扉が閉まる音とともに、店内は再び静寂に包まれる。


 マスターが食器を片付ける音が響くなか、佐伯は冷めかけたコーヒーを口に運んだ。

 苦味が舌に広がり、不思議と心地よかった。


 窓の外には、一筋の光が差していた。

 それは新しい道を示す光のようにも、過去を照らす名残のようにも見えた。


 佐伯は深く息を吸い、立ち上がった。

 濡れたスーツはまだ重い。だが心は、少しだけ軽くなっていた。



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