2.ある男の物語:青年期~老後の話
年に一度の例のイベントは、大学を卒業しても、なおも続いた。
もはや、その行動に意味はない。いわゆる儀式のようなものかもしれない。
22歳、大学を卒業し、会社に入社した。
社会人になると自由にはいかない。その日が土日であればいいが、大抵は平日。
それでも無理くり休暇を申請し、その日だけは実家に帰り、あの木の下で彼女を待った。
25歳、地元で道路の拡張を行うらしい。区画整理で実家は別の場所に移転になった。
どれぐらいの補償があったか知らないが、実家が新居になったのは嬉しい。
ただ、桜の木のある土手まで少し遠くなった。今日も、桜の木の下で彼女を待つ。
30歳、仕事で休暇は取れなかった。
夜遅くに仕事を終え、例の桜の木へ走って向かう。
雨も降っている。いるわけがない。なのに自分は何をしているのか。
当然だが、桜の木には誰もいなかった。
けども、その桜の木の枝に、白い花の草で作った指輪がかけられていた。
懐かしい。昔、自分も同じ物を作って彼女にあげた。
付近の子供のイタズラなのだろうか。
桜の木だけが自分を見つめ、雨の降る音だけがしていた。
35歳、親からは早く孫が見たいと言われる。友人もほぼ結婚し終わった。
でも、婚活する気にはならない。仕事が忙しいのもあるが、どこかで奇跡を信じる自分がいたのだろう。
今日は雨の日、いつものように休暇を申請して、彼女を待つ。
42歳、いったい自分は何をしているのかと思う。
苗木のような小さな桜の木は、見事な大木に成長した。
きっと春には華麗な花を咲かすだろう。立派になった桜の木の下で、彼女を待つ。
51歳、父親が亡くなった。母親も高齢で心配になって独り暮らしをやめ、実家から会社に通うようになる。
休暇を取得して、あの桜の木の下で待った。
58歳、ついに母親も亡くなった。
なんて親不孝ものだろう。自分は一人っ子だ。そんな子が結婚もせず、未だ彼女が桜の木の下で待つ、という妄想に憑りつかれ、今日も彼女を待つ。親不孝もの以外の何ものでもない。
65歳、会社を定年退職した。最近は、肝臓の数値も急激に悪化し、耳も聞こえづらい。それでも、あの桜の木の下で彼女を待つ。果たして、この習慣に意味はあるか。
74歳、桜の木は地元の名所になっていた。春になると、みんなこぞってこの立派な大木の下で花見をする。多くの者が訪れ、その華麗な雄姿を写真に収める。
あのときから約70年、当時はまだ、小さな若木だった桜は、見事な一本桜となり、ついに大志を達成した。
その日も桜の大木の下で彼女を待つ。
82歳、友人の葬式が多くなった。自分も不健康になる一方だ。足腰が弱く、杖を突くようになった。杖を突きながらも、今日も土手に登る。土手を登るのに苦労するようになった。
折り畳みの椅子を置いて、腰を下ろして彼女を待つ。
90歳、まさか、ここまで生きるとは思わなかった。体は不健康でもまだ動く。体の動く限り、いつもの習慣をこなそう。
桜の大木の下で今日も彼女を待つ。
彼女はまだ生きているだろうか。
98歳、何かの前触れなのか、桜の大木は、季節外れの花を咲かした。
桜吹雪の舞う中、今日も彼女を待った。
99歳、季節外れの花を咲かした桜は寿命だったのだろう。花を咲かせることもなく、立ち枯れた。
春に人々を楽しませた桜の大往生の姿は、花も葉もなく寂しげだった。
自分も桜の木と同じような運命になるはずだが、意外にも健康だ。
立ち枯れた桜の木の下で、彼女を待った。
100歳まであと数日。自分でも感慨深い。自分のことは自分でわかる。もう寿命だ。
立ち枯れたあの桜の木は、もう、伐採され、切り株だけになっていた。
自分は杖を片手に、ゆっくりと歩きながら、あの桜の木のあった場所で、彼女を待つのだ。
体が動かない。呂律がまわらない。腰は曲がり、皮膚は皺だらけ、歩くことすら一苦労。
わかっている。彼女は今年も来る訳がない。なにせ百歳だ。すでに寿命を迎えているはず。
自分でも思う。ほんとにバカだ。イタズラに時間が過ぎるだけ意味はなかった。
99歳まで続けた。だから、今年も続けるつもりだ。
体力的にこれが最後か。
最後の日ぐらい、奇跡が起きてほしい。
そう思いながら、床に就く。
夢を見た。
90年以上前の昔の夢だ。
隣の家の子といつも庭で遊んだ。
川の土手で一緒に走った。
あの小さな桜の若木の足元に生えていた白い花をプレゼントした。
あぁ、そうだ。俺は母親に教えてもらい、草で指輪を作ったのだ。
白い花の草で作った指輪をプレゼントしようとしたのだ。
懐かしい。
なぜ、今頃になって、こんな昔を思い出すのか。
もう、その指輪をあげる人は決して来ない。
でも、もし、想いが伝わるならば、この想い、届いてほしい。
彼女はまだ生きてるだろうか。