血の飯場
飯の匂いは、確かにあった。
炊きたての白米。
出汁の効いた味噌汁。
湯気に乗った、乾いた海苔の香ばしさ。
それは、烏羽鉄蔵の五感を焼き尽くした。
空腹だった。
だが、ただ腹が減ったからではない。
その匂いの中に、確かに──澄乃がいた。
思い出せない。
顔も、声も、触れた感触も。
だが、あの匂いだけは、間違いなかった。
それは、かつての生活の香りだった。
かつての──生きていた証だった。
鉄蔵は、ほとんど無意識に歩みを速めた。
泥濘を踏みしめ、赤黒い空の下を、
倒れかけた塀をすり抜け、瓦礫の間を縫い、
呼吸も乱さず、一直線に。
匂いは、風に乗って、微かに、確かに、流れてくる。
湿った腐敗臭と、焼けた骨の臭いの合間に、
細く、しかし確実に、あの"飯の匂い"があった。
どれくらい歩いたか。
気づけば、建物の密度が濃くなっていた。
低い長屋。
朽ちた土壁。
破れた障子。
しかし、どれも脈打っている。
木材も、土も、瓦も、微かに鼓動していた。
ここもまた、魑魅魍魎に飲まれている。
だが、鉄蔵は止まらなかった。
さらに進む。
飯の匂いは、すぐそこだ。
そのときだった。
路地の奥に──見えた。
卓袱台。
座布団。
湯気を立てる釜。
囲炉裏に火がくべられ、鉄鍋がコトコトと音を立てている。
炊きたての白米。
湯気の立つ味噌汁。
焼き魚。
沢庵。
──それは、完璧な「食卓」だった。
鉄蔵は、思わず足を止めた。
眩しかった。
こんなにも、温かなものが、まだ存在していたのかと錯覚するほどに。
懐かしい。
あまりにも懐かしかった。
鉄蔵の手が、軍刀から離れそうになる。
踏み出しそうになる。
だが──
そこに、"人間"はいなかった。
座布団に座る影たちは、
すべて、"人の形を模した何か"だった。
頬は溶け、眼球は歪み、口は耳元まで裂けていた。
それでも笑っていた。
白米をかきこみ、味噌汁を啜り、
裂けた口から腐った肉片をこぼしながら、
影たちは、楽しげに食事を続けていた。
気づけば、
囲炉裏の火も、炊きたての飯も、
すべて、血の色をしていた。
鉄蔵の胃が、音を立てて縮んだ。
飢えの痛みと、吐き気の狭間で、
彼は、ぎり、と歯を食いしばった。
──澄乃は、いない。
ここに、あの白い手はない。
ここにあるのは、血と肉と、地獄だけだ。
鉄蔵は、軍刀を抜いた。
かつての戦場でも、これほど冷たい決意をしたことはなかった。
影たちが、こちらを振り向いた。
裂けた口で、笑いながら。
異臭を放つ白米を手に、血の色の味噌汁を零しながら、
腐った肉と骨を咀嚼しながら。
鉄蔵は、踏み込んだ。
一切の迷いなく。
刃が夜を裂き、血と膿が弾け飛んだ。
拳銃を抜き、接近する影の頭蓋を撃ち砕いた。
銃声が、死に絶えた空に響いた。
鉄蔵は、一歩も退かない。
この地獄を抜けなければ──
澄乃には、会えない。
──待っていろ。
誰にも聞こえない声で、鉄蔵は呟いた。
軍刀を振り抜き、拳銃を撃ち、
夜の血潮を切り裂きながら、
鉄蔵は、匂いのその先へ、ただ進んだ。