夜を裂く刃
道らしきものを歩いて、どれほど経っただろうか。
感覚が、曖昧だった。
時間の流れも、空の変化も、鉄蔵には掴めなかった。
ただ、赤黒い夜だけが続いていた。
どこまでも、底なしに。
地面は腐っていた。
踏みしめるたび、肉のような感触が、靴底を押し返す。
泥でも土でもない。
この世界は、死骸の層でできていた。
倒壊した建物が、道を塞いでいる。
朽ちた橋桁の下から、何かが蠢く音がした。
鉄蔵は一歩、また一歩、躊躇いなく進んだ。
目指す場所はない。
目的地もない。
ただ、"あの名前"を胸に抱いている。
──澄乃。
それだけだ。
最初にそれが現れたとき、
鉄蔵は、反射で軍刀を抜いていた。
影。
人の形をしていた。
だが、首はねじれ、肩は盛り上がり、腕は二本ではなかった。
溶けたような顔の中央で、白濁した目玉だけがこちらを捉えている。
歩み寄ってくる。
四肢を引きずりながら、湿った音を立てて。
鉄蔵は、一歩も退かなかった。
呼吸すら、忘れていた。
ただ、静かに踏み込み、振り下ろす。
肉と骨が裂ける、鈍い手応えだけが腕を震わせた。
魑魅魍魎は、裂かれた胴を晒しながら、
なおも手を伸ばしてきた。
鉄蔵は、再び振った。
横薙ぎ。
次いで、逆袈裟。
三度、四度、五度。
血を吐くような音を響かせ、魑魅魍魎は泥に沈んだ。
鉄蔵は、軍刀を払った。
血液とも膿汁ともつかない液体が、刃から飛び散った。
拳銃に手を伸ばすことはなかった。
今の敵に、引き金は不要だった。
ふいに、風が吹いた。
生温い、粘つく風。
どこからともなく、匂いが流れてきた。
炊き立ての白米の香り。
味噌汁の湯気。
遠い昔、忘れかけていた、朝食の記憶。
一瞬、鉄蔵の足が止まった。
視界が、ぼやけた。
──炊きたての飯。
──味噌の香り。
──湯飲みを両手で持つ、小さな白い手。
顔が、見えない。
けれど、その手は知っている。
その手は──澄乃だ。
轟音が、世界を引き裂いた。
耳鳴りと共に、鉄蔵は現実に引き戻された。
足元に転がる魑魅魍魎の残骸。
腐った道。
うねる夜空。
ここは、地獄だ。
だが、あの手は、確かに存在した。
「……澄乃」
掠れた声で、もう一度、その名を呼んだ。
誰に届くでもない。
どこにいるかもわからない。
それでも、進むしかなかった。
軍刀を腰に差し、鉄蔵は再び歩き始めた。
血と泥と、澱んだ夜の中へ。
一歩、また一歩。
この地獄のどこかで、
澄乃が待っている。
その確信だけが、鉄蔵の命を燃やしていた。