第8話「村の受け入れ」
市場の朝は早い。まだ暗いうちから、商人たちが露店を並べ始める音が石畳に響く。レオンは籠いっぱいのパンを抱え、初めて店の外での販売に臨んでいた。朝露が冷たく、息が白く凍る。
「おや、マーティンの息子さんかい」
八百屋のエマおばさんが、野菜を並べる手を止めて声をかけた。その言葉に温かみがある。もう誰も「記憶喪失の青年」とは呼ばない。村人たちの中で、レオンの立場は確実に変わっていた。
「今日からここで売るんだね」隣の花屋のリリーが興味深そうに覗き込む。「噂のパン、私も楽しみにしてたのよ」
市場の片隅に場所を構え、パンを並べていく。マーティンから教わった通り、種類ごとに丁寧に。その時、不思議な現象が起きた。パンの周りだけ、空気が温かく感じられるのだ。まるで春の陽だまりのような、優しい温もり。
「これは...」近づいてきた魚屋のトム親父が目を見張る。「なんだか体が軽くなるような。腰の痛みが和らぐようだ」
市場に集まる人々の間で、すぐに評判は広がっていった。年老いた大工のジョンが杖をつかずに歩けるようになり、徹夜明けの若い農夫が元気を取り戻す。パンを口にした人々の表情が、見る見る明るくなっていく。
『力は人々のために使うもの。それが騎士の誓い——』
また記憶の断片が浮かび上がる。しかし今回は、いつもの頭痛は来なかった。むしろ、懐かしい温かさが胸に広がった。
「レオンさん!」
ユリアが薬草籠を抱えて通りかかった。季節の薬草が、爽やかな香りを漂わせている。
「今日は薬草摘みですか?」
「ええ、でもその前に...」彼女はパンを手に取った。「噂通りですね。これ、私が探していた効果かもしれません」
ユリアの目が輝いていた。薬屋の娘として、彼女には分かるのだろう。このパンに宿る不思議な力を。
「研究させてもらってもいいですか?」と彼女が真剣な表情で尋ねる。「きっと、村の人たちのためになるはず」
レオンは静かに頷いた。自分の力が、確かに人々の役に立っている。その実感が、温かな喜びとなって広がる。
夕暮れ時、完売した籠を下げて帰路につく。石畳に残る夕陽が、長い影を作っている。道すがら、村人たちが温かな視線を向けてくる。農夫に、職人に、商人に、子供たち。自然と会釈を交わす関係が、いつの間にか築かれていた。
「お疲れさん」と声をかけてくる者もいれば、「明日も楽しみにしてるよ」と笑顔を向ける者も。それぞれの言葉に、確かな信頼が込められている。
家に戻ると、マーティンとアンナが待っていた。厨房からは夕食の香りが漂う。
「どうだった?」マーティンが心配そうに尋ねる。
「完売です」レオンは報告した。「それに——」
「それに?」
「村の人たちが、温かく迎えてくれました」
アンナが優しく微笑む。「当たり前よ。だってあなたは、この村の大切な一員なんだから」
「おかえり、息子よ」
マーティンの言葉に、レオンは確かな幸せを感じていた。記憶は失っても、今ここにある絆は真実だ。それは日々の暮らしの中で、確実に育まれていくものだった。
窓の外では、家々の明かりが次々と灯されていく。村は静かな夜を迎えようとしていた。その光の中に、レオンは自分の居場所を見つけていた。