第7話「家族の絆」
日曜の午後、パン屋の厨房は珍しく静かだった。窓から差し込む陽光が、古い木の床に温かな縞模様を描いている。
「レオン、これを見てほしいの」アンナが古いアルバムを広げた。革張りの表紙は所々擦り切れ、ページからは懐かしい時の香りがする。「私たちの若かった頃よ」
黄ばんだ写真には、若いマーティンとアンナが写っている。開店当初の店の前で誇らしげに立つ二人の姿。マーティンの髪はまだ黒く、アンナの瞳は今以上に輝いていた。
「このパン、今のフランスパンの原型なんだ」マーティンが懐かしそうに写真を指さす。その指が僅かに震えている。「先代から受け継いだレシピをずっと守ってきてな。このパンには、私たちの家族の歴史が詰まっているんだ」
レオンは写真に見入った。そこには確かな幸せがあった。笑顔の中に、希望に満ちた未来への期待が垣間見える。しかし同時に、何かが欠けているような寂しさも感じられた。子供の姿がないからだ。
「私たちには子供が授からなくてね」アンナが静かに語り始めた。その声には長年の諦めが滲んでいる。「でも今は、あなたという素晴らしい息子がいる。神様は、時を越えて私たちに最高の贈り物をくれたのね」
その時、玄関の鈴が優しく鳴った。
「あら、ユリアさん」アンナが立ち上がる。
「すみません、日曜なのに」ユリアは申し訳なさそうに言った。髪が少し乱れ、急いで来たことが分かる。「母が急に熱を出して...いつものパンを、お願いできないでしょうか」
「分かりました」
レオンは立ち上がり、厨房へ向かう。特別な力を込めたパンを焼こうと思った時、不意に目眩が襲ってきた。視界が揺れ、どこからともなく声が聞こえる。
『癒やしの力は使い過ぎるな。相手の命に寄り添うんだ。それが癒やしの真髄』
また、あの声が。記憶の奥に沈む誰かの言葉。優しくも厳しい、師のような存在の声。
「レオン?」マーティンが心配そうに声をかける。「無理はするなよ」
「大丈夫です」レオンは微笑んで答えた。「これくらい、問題ありません」
生地を捏ねながら、レオンは考えていた。記憶は失っても、今ここにある確かな絆。アンナの優しさ、マーティンの厳しくも温かな指導、そして村人たちとの繋がり。それらは決して偽りではない。
レオンの手から、淡い光が生地に溶け込んでいく。今では、この不思議な力をコントロールできるようになっていた。
パンが焼き上がる頃、夕陽が厨房を赤く染めていた。甘い香りが部屋いっぱいに広がり、温かな光が漂う。
「ありがとうございます」ユリアは感謝の言葉を述べ、急いで帰っていった。その背中を、三人は優しく見送る。
「さあ、夕食の支度をしましょう」アンナが立ち上がる。「今日は特別なスープを作ったのよ」
マーティンは黙ってレオンの肩を叩いた。その仕草に、言葉では表せない深い愛情が込められている。
夕暮れの光の中、レオンは静かに微笑んだ。記憶の扉の向こうで何かが動いているのを感じながら。それは今はまだ、開くべき時ではないのかもしれない。