第6話「パン作りの修行」
真夜中の厨房に、小麦粉を捏ねる音だけが響いていた。月明かりが窓から差し込み、レオンの影を床に長く伸ばしている。
「まだ練習か」マーティンが静かに声をかけた。「もう三日目だな、夜の仕込みは」
「はい」レオンは手を止めることなく答えた。「どうしても、この感覚を掴みたくて」
生地は次第に艶を帯び始め、レオンの手の下で生命を得たかのように変化していく。以前より確かに上手くなった。それは単なる技術の向上ではない。生地に触れる度、何か大切な記憶が指先をすり抜けていくような感覚があった。
マーティンは黙ってレオンの手さばきを見つめていた。月明かりに照らされた老職人の目には、懐かしさと誇りが混ざったような感情が浮かんでいる。
「ふむ」マーティンは生地を見つめながら、静かに言葉を紡いだ。「その動きは、剣を振るうような——まるで武術の型を見ているようだ」
「っ!」
突然の頭痛。剣という言葉が、記憶の扉を強く揺らす。まるで閉ざされた扉の向こうで、誰かが叫んでいるような。
『力の流れを感じろ。相手の命を感じろ。それが真の——』
「大丈夫か?」マーティンが心配そうに寄り添う。
「はい、ただの頭痛です」レオンは額の汗を拭った。「気にしないでください」
それでもレオンは生地に触れ続けた。するとどこからか、懐かしい声が聞こえてくる。誰かが自分を導いていた時の記憶。しかし、その声の主の顔は霧の向こうに隠れている。
生地を捏ねる手が、かつて剣を握っていた感触を思い出す。力の入れ方、リズム、呼吸の仕方——それらが体に染み付いているかのように自然と湧き上がってくる。
「レオン、その生地......光っているぞ」
マーティンの驚いた声に、レオンは我に返った。確かに、生地が淡い青白い光を放っている。癒しの力が自然と流れ込んでいたのだ。まるで月光が生地の中に溶け込んだかのような輝き。
「申し訳ありません。これは——」
「謝ることはない」マーティンは穏やかに微笑んだ。「君には特別な才能がある。それを隠す必要はないんだ。むしろ、その力で多くの人を幸せにできる」
レオンは黙って頷いた。生地を丁寧に成形し、オーブンへと運ぶ。温度を確認し、タイミングを計る。その一連の動作にも、どこか戦士のような凛々しさが漂っていた。
焼き上がったパンは、まるで月光を閉じ込めたように神秘的な輝きを放っていた。その瞬間、階段を下りてきたアンナがその光景を目にする。
「まあ......」彼女は息を呑んだ。「こんな美しいパン、見たことがありません」
「朝一番のパンにしよう」マーティンが誇らしげに言った。「村の人たちに、君の心が詰まったパンを。きっと喜んでくれる」
窓の外では、夜明け前の空がうっすらと白んでいく。鳥たちの最初の囀りが聞こえ始めた。レオンは深く息を吸い込んだ。新たな一歩を踏み出す時が来たようだった。
その時、誰にも気付かれることなく、一枚の白い羽が窓辺にそっと舞い降りた。過去の何かを告げるように、儚く光を放ちながら。