第5話「養子縁組」
村長の家の応接間は、古い木の温もりに包まれていた。窓から差し込む午後の陽光が、重厚な家具の影を床に落としている。
「私を養子に、ですか?」
レオンは驚きを隠せなかった。隣に座るマーティンとアンナが真剣な表情を浮かべている。テーブルの上には、まだインクの乾ききっていない書類が置かれていた。
「ええ、正式な手続きを」村長のヘンリーは温厚な笑みを浮かべた。白髪まじりの髭をたまに撫でる仕草には、長年の習慣が感じられる。「記憶がないとはいえ、身元不明では不都合もありましょう。商人との取引にも差し障りが出かねません」
確かにその通りだった。先日の商人との一件以来、レオンは自分の立場の曖昧さを意識していた。パン職人として働くにも、正式な身分がないことは障害になる。
「でも、私には記憶が...」レオンは躊躇いがちに言葉を紡ぐ。「私が何者か、どんな過去を持っているのかも分からないのに」
「レオン」アンナが優しく呼びかける。その声には母としての愛情が滲んでいた。「あなたはすでに、私たちの大切な家族よ。この一月で、それは十分に分かりました」
「私たちには子供がいなかったんだ」マーティンが静かに続けた。その目には、長年の寂しさが垣間見える。「だが、君と出会って、初めて親になれた気がした。これは偶然ではないと思うんだ」
レオンは言葉を失った。記憶のない自分を、ここまで信頼してくれる。その思いの重さに、胸が熱くなる。
「ありがとうございます」
深々と頭を下げる。目に熱いものが込み上げてきた。それは感謝の涙であり、新しい絆を感じる喜びの涙でもあった。
「では、手続きを」
村長が書類を広げた時、窓の外で影が動いた気がした。レオンは一瞬身構えた。戦士としての勘が、危険を察知したかのように。しかし、外には何もない。ただ白い鳥が一羽、遠ざかっていくのが見えただけだった。
「さあ、ここにサインを」村長が穏やかに促す。
羽ペンを手に取り、レオンはゆっくりと名前を記していく。インクが紙に染み込むように、新しい絆が心に刻まれていく。
「これで正式に、私たちの息子です」アンナの目に涙が光る。
マーティンは黙って頷いたが、その表情には深い感動が浮かんでいた。
「おめでとう」村長は満面の笑みを浮かべる。「今夜は祝いですな」
窓の外では、夕焼けが空を染めていた。新しい家族の絆が結ばれる瞬間、遠くで誰かの視線を感じる。それは優しくも、どこか物悲しい眼差しのようだった。
レオンの記憶の奥底で、何かが僅かに揺れた。しかし、それは次の瞬間、また深い闇の中へと沈んでいった。