第4話「村での噂」
朝露の残る石畳の上で、レオンは店先の掃除をしていた。開店から一週間が経ち、朝の仕込みにも慣れてきた頃だった。
「不思議なパンですね」
声の主は薬屋の娘ユリア。明るい茶色の髪を後ろで束ね、薬草の香りを纏った白いエプロンを着けている。彼女は毎朝、店に立ち寄るようになっていた。
「どういう意味でしょう?」レオンは箒を持つ手を止めた。
「食べると、体が温かくなるんです」ユリアは真剣な面持ちで続けた。「昨日も母が風邪気味でしたが、このパンを食べたら、けろりと治ってしまって。薬屋の娘として、とても興味があるんです」
レオンは平静を装ったが、内心動揺していた。確かに彼のパンには、あの治癒の力が混ざっているのかもしれない。無意識のうちに、生地に力が流れ込んでいるのだろうか。
「マーティンさんの腕が良いんですよ」レオンは話を逸らそうとした。
「いいえ、違います」ユリアは首を振った。その瞳には、何かを見抜くような光があった。「村長様も言ってました。あなたが来てから、パン屋さんが変わったって。まるで、魔法のパンみたいだって」
その時、近所の農夫トーマスが駆け込んでくる。普段は穏やかな男が、今日は珍しく取り乱していた。
「レオンさん!息子が井戸に落ちて足を怪我したんです。あのパンを分けてもらえませんか?病院まで遠くて......」
「ええ、もちろん」
レオンは慌てて店内に戻り、まだ温かいパンを包んだ。その時、意識して癒しの力を込めた。パンが僅かに輝きを帯びる。
「ありがとうございます!」農夫は深々と頭を下げ、走り去った。
「ほら」ユリアが意味ありげに微笑む。「村の人たちは、もうあなたを頼りにしているんです。私にも分かりますよ。このパンには、ただのパン以上の何かが......」
レオンは黙って空を見上げた。夕暮れが近づき、雲が茜色に染まり始めている。自分の力は隠すべきなのか。それとも——。
「悩んでいるのか?」
気がつけば、マーティンが隣に立っていた。
「この村の人たちは、温かいですね」レオンは正直な感想を口にした。
「ああ。だからこそ、君も素直に自分らしく生きていけばいい」老職人の声には、深い愛情が込められていた。「人を癒やすパンを作る。それが君の道なのかもしれんよ」
マーティンは見抜いていたのだろうか。レオンはただ黙って頷いた。記憶はなくとも、今の自分にできることがある。それを素直に受け入れることから、始めようと思った。
店の奥では、アンナが夕食の準備をしている音が聞こえる。ユリアは薬草を摘みに行くと言って去っていった。日が傾き、街灯が一つ、また一つと灯されていく。
穏やかな夕暮れの中、レオンは確かな手応えを感じていた。自分の居場所が、少しずつ見つかってきたような。
そして誰も気付かない場所で、一羽の白い鳥が飛び立った。どこか懐かしい気配を残して。