第3話「パン作りの才能」
夜明け前の静けさの中、パン屋の厨房に二つの影があった。
「まずは生地の捏ね方からだ」
早朝の厨房で、マーティンはレオンに基本を教えていた。小麦粉の香りが立ち込め、仕込み水の冷たさが手に染みる。
「力加減が大事でな。強すぎても弱すぎてもいかん。生地の声を聴くんだ」
レオンは黙って頷き、手の中の生地に集中する。不思議なことに、体が覚えているような感覚があった。手が自然と動き、生地を優しくこねていく。まるで生き物を扱うような、そんな感覚だった。
生地は次第に艶を帯び始め、弾力のある滑らかな表面へと変化していく。レオンの手の中で、小麦粉と水の混合物が、まるで魔法のように生命を帯びていくようだった。
「おや」マーティンが目を見張った。「君、以前パンを作ったことがあるのか?」
「いいえ、記憶にはないのですが......」
実際、手の動きは記憶の底から湧き上がってくるかのようだった。まるで、何か別の動作を思い出しているような。剣の素振りか、それとも魔法の詠唱か——。そんな考えが頭をよぎった瞬間、また軽い頭痛が起こる。
「なかなかの素質だ」マーティンの言葉に、レオンは我に返った。
老職人は生地を確認し、満足げに頷いている。その目には、かつて誰かに教えていた時の懐かしさのような感情が浮かんでいた。
「次は成形だ。丸める時は、こうやって——」マーティンが手本を見せる。その手つきには長年の経験が滲んでいた。
その時、アンナが厨房に入ってきた。朝もやのような優しさを纏って。
「あなた、そろそろ一回目の焼き上がりでは?」
「ああ、そうだった」マーティンは慌てて立ち上がる。
マーティンはオーブンに向かい、パンを取り出した。香ばしい香りが厨房中に広がる。レオンは、その香りに懐かしさを感じた。なぜだろう。記憶にないはずなのに。
「レオン、君も一緒に来て」
二人は店の表へ。朝一番のパンを買いに、すでに数人の客が並んでいた。早朝の空気は冷たく、客たちは息を白くしている。
「いらっしゃい。今朝は若い衆が手伝ってくれてな」マーティンは誇らしげにレオンを紹介した。
客たちは興味深そうにレオンを見つめる。記憶喪失の青年を老夫婦が引き取った——という噂は、すでに村中に広まっているようだった。しかし、その視線に悪意はない。むしろ、温かさが感じられた。
「では、次は君が作った生地で焼いてみよう」
戻った厨房で、レオンの捏ねた生地を成形し、オーブンへ。待つ間、レオンは不思議な感覚に襲われていた。まるで、生地の中に自分の気持ちが溶け込んでいくような。森で狼を癒やした時と同じような、温かな力の流れを感じる。
待つこと30分。オーブンを開けた瞬間、驚きの声が上がった。
「これは......」
マーティンは驚きの表情を浮かべた。レオンが初めて焼いたパンは、まるで光を放つかのように輝いていた。その香りは普段以上に豊かで、見た目も完璧だった。ほんのりと淡い光を放つような艶やかさ。
「食べてみよう」
アンナが一つ手に取り、ちぎって口に入れる。パンは柔らかく、蒸気が立ち上る。
「まあ......」
彼女の目が潤んだ。感動に震える声で。
「こんな美味しいパン、食べたことがないわ。なんだか、体の中から元気が湧いてくるような......」
レオンは自分でもびっくりしていた。確かに、生地を捏ねる時、あの森で狼を癒やした時と同じような感覚があったような......。そう、これは単なるパンではない。癒しの力が宿ったパンなのかもしれない。
「これは才能だ」マーティンが太い手でレオンの肩を叩く。その目は確信に満ちていた。「うちのパン屋の看板を背負って立つ者の才能がある」
「看板を?」
「ああ。我が家の後継ぎとして、パンを作り続けてほしいもんだ」
レオンは言葉を失った。たった一日で、そこまで信頼してくれるのか。しかし、マーティンの目には迷いがない。
「私にそんな資格が......」
「資格なんてものは、これから作ればいい」マーティンは優しく微笑んだ。「大切なのは、パンを愛する心だ」
アンナもまた、温かな眼差しを向けている。二人の目には、かつて失ったものを取り戻したような喜びが浮かんでいた。
「パンを愛する心…」
レオンは深く頭を下げた。記憶はなくとも、この場所で、この人たちと共に生きていく——その決意が、静かに心の中で形を成していった。
窓の外では、朝日が昇り始めていた。新しい一日の始まりを告げるように、鐘の音が村に響く。
その時、誰も気付かなかった。レオンの手から、かすかな光が溢れ出ていたことに。