殴打
態勢を低くしたシャルロが、走りながら木の棒を持った右手を振り上げる。
また突いてくる、か。
そう感じたライアンは腰を落とし、引いていた右手を前に出す反動を使って体を捻りながら、間近に迫ったシャルロの顔をめがけて左足の回し蹴りを繰り出した。
少し虚を衝かれたシャルロだったが、とっさに身を屈めてライアンの蹴りを躱しながら身を反転させ、がら空きになっていたライアンの背中を木の棒で思い切り叩きつけた。宙に浮いている状態で背中を打たれ、思わず身を仰け反らせたライアンは、空振りになった左足に遠心力がかかり、くるっと空中で一回転して背中から雪の上に落ちていった。
勝負はあっさりとシャルロが勝った。
雪の上に倒れたライアンを見下ろすシャルロの顔が、手合わせのときよりも険しくなっていく。
「貴様、ジン王女の得意技を…」
そうなのだ。体を反転させながらの回し蹴りは、ジン王女が好んで使う技なのである。ジン王女との修行で、いつもこの回し蹴りでやられているうちに、ライアンも見よう見まねで練習していたものが、咄嗟の反応で体が動いていたのだった。
「お前ごときが、なぜ、ジン様の技を使うんだ」
シャルロは叫ぶようにそう言うと、起き上がれないでいるライアンの胸を、頭を、足を、持っている棒で滅多打ちに叩きはじめた。冷たい雪の上で、ライアンは身を丸くしてじっと耐えていた。
「お前が来てから、全部おかしくなった。お前が…、お前が来なければ、よかったんだ」
唾をまき散らし、絶叫しながら、シャルロはライアンを叩きつづけた。木の棒が折れると、折れた棒を捨て、今度は素手で、頭をかばいながら丸まっているライアンを執拗に殴りつづけた。
「シャルロ先生、何やってんだよ」
庇っていた腕の隙間から、イゲルとマイトラがシャルロの足にしがみついて必死に止めている姿が見えた。いつの間にかやって来た二人が、異変に気付いてシャルロを止めに入ってくれたらしい。
唾を飛ばしながら殴りつづけていたシャルロは、「やめてよ、先生、やめてよ」と叫ぶイゲルとマイトラに漸く気がつくと、放心したようにライアンを見下ろしたあと、頭を掻きむしりながら診療所へとふらふら歩いていった。
「大丈夫か、ライアン」
二人に起こしてもらい、雪の上に座り直すと、ライアンは診療所へ入っていくシャルロをちらっと見て、溜め息をついた。後頭部や背中がずきずきと痛む。
「怪我してるんじゃないの」
マイトラに言われて、座ったまま体を動かしてみる。痛みはあるが、骨は折れていないようだった。
「ああ、大丈夫だ」
「何があったの」
ライアンの顔を覗きこむイゲルが訊いた。
「うーん…、手合わせして、俺が負けたら、急に殴られた」
「え、なんだよそれ。シャルロ先生が負けたんで、逆切れして暴れたのかと思ったのに」
「いや、完敗だったよ、俺の」
「そうだよな。ライアンが勝つはずないもの」
ライアンはイゲルの頭をぽかりと叩いた。
頭を押さえ、「痛って」と口を尖らせながら、「シャルロ先生があんなに怒ったの、俺はじめて見た」と言った。
「病院の仕事が忙しくて、イライラしてたのかなぁ」
マイトラがライアンの背中をさすりながらそう言った。
確かにそれもあるかもしれない。
だけど。シャルロには、想いがあったのだ。シャルロにとっては、その想いにライアンは邪魔なだけの存在なのだろう。そう気づかされたわけだったが、ライアンとしては迷惑な話だった。
「グラックス先生に診てもらった方がいいんじゃない」
心配そうに見つめる二人の頭をごしごしっと撫でて立ち上がると、「二人とも、助けてくれてありがとな」と言って、ライアンは少し足を引きずりながら診療所へ歩いていった。
「何があったんだい」
黒くてねばねばした液体をライアンの背中に塗りながら、グラックスが訊いた。
「俺が弱すぎたんです」
イゲルとマイトラから事の次第を聞いたグラックスは、部屋で寝ていたライアンを診察室に呼んだのだった。シャルロはどこに行ったのか、姿は見えなかった。
「これ、オーチュの匂いに似てるなぁ」
ひんやり冷たい黒いものの匂いを嗅ぎながら、ライアンが呟いた。
「ああ、よくわかったね。アレフォス島のオーチュで作った湿布薬に、ゴダールの海藻を混ぜて作ったんだ。打撲や捻挫によく効くんだ」
黒い湿布薬の上に油紙を貼り、その上から包帯をぐるぐる巻かれていく間、ライアンはずっと目を閉じていた。
「懐かしい匂いかい」
「はい」
アレフォス島の主に西側の山の中腹によく見られる野草のオーチュは、その葉を発酵させたものを煮だした汁が昔から傷薬や湿布薬として重宝されていた。
独特の、つん、とした匂いが頭の芯に届いてくる。幼いころに転んで怪我をしたとき、傷口に塗られると滲みて痛いので、オーチュの汁が入った小瓶を持ったコバックから必死に逃げ回ったときの情景が目に浮かんできた。
打ち身や擦り傷が絶えない修学院では皆が体のどこかにオーチュの薬を塗っていて、教室はオーチュの匂いに満ちていた。慣れるといつしか一番身近な匂いになってしまって誰もが気にも留めなくなってしまうのだが、改めてその匂いを嗅いだことで蘇ってきた修学院での生活が、ついこの前のことなのにとても遠い昔のことのように感じられた。
「小さい頃のシャルロは、もっと活発な子だったんだけどね」
ため息をつくように、グラックスが話しだした。
「私の従姉のクレア、シャルロの母親は、パラレの教官をしているんだが厳しい人でね。たぶん、そこから逃げるように医者になりたいといって私の所に来たんだが、何かにつまづくとひどく思いつめるような子になっていた。もともとそういう性格だったのかもしれないけど、器用な方ではないから、最近急に忙しくなって、精神的にちょっと追い詰められていたのかもしれないな」
「シャルロさんは、きっと、俺に戦いの厳しさを教えてくれようとしてたんです」
ライアンの顔を見つめたグラックスは、ちょっと間を置いて、にっこり微笑んだ。
「君は、いいやつだな」
ライアンの頭を、ぽん、と叩くと、「それにしても」と言ってグラックスは立ち上がった。
「ザレの結晶との順応は、かなりできているようだね」
「はい。たまに手が疼くときはあるけど、普段はあまり気にならなくなりました」
うんうん、とグラックスが頷く。
「でも油断しちゃいけない。もしも、ザレの力が発揮できるようになれば、また何かしらの反応が出てくるかもしれない。引き続き、パラレの修行を通して体の中や周りを流れる水を意識して見極めることは、君にとって必要なことだと思うよ」
「先生。パラレの修行中に、砂が流れるような音が聞こえてきたことはありますか」
ライアンの耳に聞こえた、小さな砂が流れていくような音のことを説明すると、グラックスは口元に指をあてて考え込んだ。
「砂が流れるような音が聞こえる、とは聞いたことがないけど、それは君に芽生えた感覚なのだろう。私にはそれは、いい兆候だと思えるね」
ライアンが頷くと、「じゃあ、部屋に行っていいよ。二日は修行を休んでゆっくり休みなさい」とグラックスが言った。
「後で、シャルロには私から事情を聞いておくよ」
部屋から出て行こうとするライアンに、グラックスが声をかけた。
「いや。先生は知らないふりをしていてください」
そう言って部屋を出ていくライアンを見送ったグラックスは、後ろ手を組んだまま、しばらくその場に静かに立っていた。




