ミロイの想い 1
「じゃあ、行ってくるよ」
ミロイが背負い袋を担ぎなおしてコバックに声をかけると、叔父は何も言わず、ただにっこりと微笑んでいた。
寮までの帰り道、ミロイとライアンはしばらく無言で歩いていた。
ミロイはふと横を見て、ライアンが自分よりも少し背が伸びたような気がすると思った。双子でもやはり兄の方が早く成長するのだろうか。
辺りはすっかり暗くなり、小雨が降っている。手に持ったカンテラの灯りでぼんやりとしか道は見えないが、通いなれた山道に迷うことはない。ジイの木の皮を叩いて繊維状にして紡ぎ、食用にもできるモンの実をすり潰して採れる油を浸み込ませた合羽は、軽くて丈夫で雨に濡れる心配はなかったが、短い秋の夜はやはり少し肌寒い。
木々が途切れ、幅の広い道に出た。石畳で舗装されたこの道は、ロクトの下院からバーラの町を抜けてアドリラ川の河口の港までずっと続く街道だった。ここから海の方に目を向ければ、雨の夜でなければバーラの町の灯りがほんのりと見えているはずだ。
「もうすぐ収穫祭だな」
ライアンが独り言のように言った言葉に、ミロイはどきっとした。
ライアンは人の心が読めるのでないか、と、時々ミロイは思うことがある。
二人は双子だから、考えが通じ合ってしまうのだろうか。ライアンが何を考えているのかミロイにはよく分からないのだが、ミロイが思っていることをライアンが口にすることが時々あるのだった。そしてミロイが悩んだり悲しんだりしていると、ライアンはいつもちょうどいいタイミングでぼそっと一言、励ましたり、アドバイスをくれたりするのだった。
ミロイは小さい頃から、何をやるにしても自分に自信が持てなかった。
だからそれを悟られないように明るくみんなに話しかけ、周囲の人の機嫌をいつも窺っているような子だった。そんなミロイから見ると、ライアンは常に落ち着いていて取り乱さず、大事な時にはちゃんと責任を果たす、そんな頼もしい兄だった。ライアンがいたから、両親の死という現実もそれほどミロイの心に深い傷を残さなかったし、おそらくライアンは、自信のないミロイの性格も何もかもお見通しで、ミロイはそんな一番の理解者である兄と一緒にいるときは、何も飾らない素の自分でいられるのだった。
「ライアンも収穫祭、気になるの」
「そうだな。こんなに雨が続いたら収穫に影響が出るかもしれないしな。そうしたら収穫祭どころじゃないかもしれない」
「うん」
「ふん。ミロイは子供のころから収穫祭が大好きだったもんな。残念だったな、エグサにならなきゃ伝送奉納に出られたかもしれないのに」
「そうなんだよね。ライアンと一緒に出るのが夢だったのに」
「俺は出ねぇよ」
遥か昔から四季折々にロクトが営む祭祀は色々あるが、中でも実りの時期に三日間に渡って行われる収穫祭は島一番のお祭りで、島内のあちこちで様々な催し物が開かれる。森の中では杉の巨木を大鋸で切る競争や縄を使って木に登る速さを競う競技が、アドリラ川では四人乗りの木船で川を下るレースなどが行われる。バーラの町ではロクト行政庁前の広場に沢山の屋台が出て、今年採れた野菜や穀物を使った料理を提供したり、子供向けの輪投げなどを楽しむことができ、夜には沢山の篝火が焚かれ、横笛のプルーナと太鼓の音に合わせて老若男女が輪を作って踊り歩くのだった。
そして収穫祭の最も盛り上がる重要な儀式が伝送奉納だ。
伝送奉納は、集落ごとに参加する者が一番多いが、島に暮らす者で五人のチームを組むことができれば誰でも参加することができる。
チームは島の西にあるロクト森林監督庁の建物をスタートしてキーリャム山脈の尾根伝いにある険しい道を縦走し、山脈の四分の三ほど行ったところで山を降りて海に出る。そこからアドリラ川の河口の港までの海を遠泳し、港からは石畳の街道をロクト下院まで走って行くと、ザレを祀っている奥の院の正門前まで続く三千八百の石段が最後に待っている。石段を最初に制覇した者が御神木のスダジイにリル酒を注ぎかけるという、過酷な儀式が伝送奉納である。
優勝した五人はトンフ(牛に似た動物)が引く山車に乗り、導師三人に先導されて下院からバーラの行政庁まで練り歩く。チームの五人は行程のどの部分を担ってもいいのだが、やはり港から街道を走り、天を衝くような階段を駆け上がる者は沿道の島民からの声援を一身に受けるので、伝送奉納で一番目立つ花形の区間だった。
まだ三歳か四歳の頃だったと思うが、ミロイははっきりと覚えている光景がある。
収穫祭の最終日、暮れなずむ空の朱色が見る間に濃くなっていくなか、伝送奉納の最終区間に一番に現れた青年が、髪をたなびかせ、歯を食いしばって駆け抜けていき、彼のあごから流れ落ちた汗が夕陽にきらきらと照らされながらゆっくりと石畳に吸い込まれていく。
ライアンは母の背中で眠ってしまっている。ミロイが父の肩に跨って、篝火で昼間のように明るく照らされた街道を見ていると、やがて優勝した五人が山車の上から笑顔で手を振りながら通り過ぎていく。その行列を周りの大人たちよりも頭一つ高い位置から見ていた情景が、近くにあった篝火にくべてあった薪が爆ぜる音とともに、ミロイの心に映し出されるのだった。
いつか僕も伝送奉納に出てみたい、とミロイは子供心にそう思ったものだ。
あの時に思った気持ちは今でも変わらないが、収穫祭を執り行う立場のエグサは、伝送奉納に参加することはできない。それでも収穫祭と聞くと、ミロイの心はざわざわと波立ってしまう。それはもしかしたら、伝送奉納に参加したいという憧れよりも、あの日伝送奉納を見た記憶が、ミロイが覚えている家族四人全員がいたときの、最後の出来事だったからかもしれない。
街道の始点であるロクト下院は、足腰が弱って山の中腹にある本堂まで昇ることができない島民などが参拝するために造られたのである。
街道脇の朱塗りの大きな正門を潜ると、一抱えもある石を規則的に敷き詰めた広い空間が広がっている。
敷地の右側に講堂や倉庫が立ち並び、左側には講堂の倍の高さがありそうな、ジイの巨木が直立して据えられている。
このジイの巨木、大人四人が手をつないだくらいの太さがある幹回りを触れながらぐるりと一周すると、奥の院の風光石ザレを参拝するのと同じ功徳があるとされているので、お参りに来た島民は必ず木の周りを回ってザレのご利益にあずかろうとするのだった。長年の手垢と風雨で表面が薄黒く変色してしまっているこの巨木は、三十年に一度新しい木と変えられる。新しく据えられる御神木は乾燥が漸く終わり、いまは腐食防止の油を表面に染みこませている頃だろう。
奥に進むと、生い茂る枝葉に隠れて、見上げても先が見えない石の階段が現れる。風光石ザレを祀る奥の院に続く三千八百段の石段だ。
山の斜面に合わせて蛇行する石段は、補修や交換により遥か昔から維持されてきたもので、古いものは苔むして、人が歩く両端が削れてへこんでしまっていた。上る者は右側を、下る者は左側を通らなければならないからだ。
その石段を二千段上がると右に逸れる道があり、その先にある、尾根を削って谷を埋めた広大な敷地にロクト修学院がある。講義を行う建物と武術指導などを行う武道館が建ち、その前には大きな庭が広がっていて、奥には生徒とエグサが寝泊まりする古い寮が建っている。
下院からの石段を上がりはじめたところで雨風がまた強くなってきた。カンテラの火は隙間から入る風で今にも消え入りそうに瞬いている。石段には等間隔で灯篭が設置されているのだが、ぼんやりと照らすその光は夜の雨に滲まされ、気を付けていないと濡れた石段は今にも足を滑らせそうな色をしていた。
「おう、どうした」
ふいにライアンが顔を上げて言ったので、ミロイが石段の上を見上げると、そこには無言で佇むクロウの姿があった。
「そうか。クロウは今日までサージェンだったね。ピノおじさんのところに行くのかい」
ミロイが尋ねると、クロウは小さく頷いた。
「僕は今日からサージェンなんだ。一週間やってみてどうだった」
「問題ない」
いつも通りの素っ気ない返事にライアンがくすっと笑った。
「クロウは優秀だからなぁ。いずれ導師になっちゃうかもな」
ライアンの軽口には答えず、クロウは降りしきる雨の奥の、真っ暗な森を見上げた。切れ長の目が一瞬光ったような気がして、ミロイはクロウの肩に手をかけた。
「どうかしたの」
視線を森の奥に向けたまま、クロウは短く「いや」と言って、そのまま何も言わずに石段を下りていった。
「きっと疲れてるんだろ」
ライアンがそう言って昇りはじめたので、ミロイも一段登りかけ、ふと立ち止まって後ろを振り返った。雨にかき消されたように、クロウの姿はそこになかった。