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BOUNDARY ~境界線~  作者: 八木 康
ゴダール諸島
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追跡

 踏みしめられた靴の跡。折れた断面が新しい小枝。

 グラントリーの目の前に、逃走者のまばらな痕跡が途切れることなくずっと続いていた。

 怪我をした足を庇いながら森の中を歩くのは、バランスを取るのも難しいだろう。それ故、多少の跡が残っても、速く逃げることを優先しているのか。それとも、足跡を残すことの危険を考慮することもできないズブの素人なのか。はたまた、それを踏まえたうえでの罠か…。

 キノコ農家の家からみて、今いる場所は東にかなり進んでいる。木々の間から見える空は青いが、辺りは暗くなりはじめていた。もう少し行けば森が途切れ、その先に続く断崖の向こうに海原が見えるはずだ。

 そう思った瞬間、ふいに何かが動く気配を感じてグラントリーは身を(かが)めた。

 いる。近くに。

 ヨックか。…いや違う。

 アレフォス島の西の山奥にあるモズンという村で生れたグラントリーの家は、クロウやピノと同じように、森に()む生き物を狩って(かて)にする猟師であった。

 幼い頃から山に連れ出され、獣道を這いまわり、体じゅう泥だらけになる猟師を彼は嫌っていた。だから、ナルッサでエグサに選ばれたときは心の底から喜んだものだ。それが、何の因果か、こうして山の中を歩き回り、猟師のごとく獲物を追いかけている。

 それでも彼の根底に刻まれている生き様が、森のちょっとした変化を見逃さなかった。

 グラントリーは両手で口を覆うような仕草をすると、そこに軽く息を吐きかけた。

 手袋に当たった息は、ぽっ、と淡い青色の光を放ち、十本の指先に絡みつくようにくるくると回転しながら螺旋(らせん)を描いて伸びていく。

 それはまるで指先から鋼の爪が生えているように見えることから、彼はこれを『旋鋼爪(せんこうそう)』と呼んでいる。

 前方の木立のどこかで、ぱきっ、と小枝が折れる音がして、それと同時に、ひゅーっ、と空気を切り裂く音がした。何かが後ろの木に当たった瞬間、爆発音がして飛び散った木っ端が降り注いでくる。

 指先から伸びる旋鋼爪を咄嗟に頭上に広げて身を守ったグラントリーは、視界の先に、身を翻して逃げていく男の姿を捉えていた。

 後ろを振り返ると、数歩先にある大木の表面が大きくえぐられているのが分かった。

 先端に爆薬を仕掛けた矢、か…、恐ろしい武器を使う。

 気を取り直したグラントリーはすぐに前を向き、手頃な枝を見据えて左手を突き出した。

 五本の指から伸びていた旋鋼爪は身を(よじ)りながら互いに絡まりあい、やがて一つの太い綱のようになって伸びていくと先端が木の枝に絡まって止まった。グラントリーがそれを軽く引くと、綱状になった旋鋼爪が縮んでいき、体がふわりと宙に浮いた。上昇している間に右手を突き出すと、左手の時と同じように旋鋼爪が絡まり合いながら伸びていき、前方の木の枝に絡まりつく。今度はそれを引いてまた宙を飛ぶと、グラントリーは振り子のように弧を描きながら、逃げた男を樹上から音も無く追った。

 見つけた。

 藪をかき分けるようにして、大柄な男が走っていく。

 グラントリーは男が走る方向にある枝めがけて旋鋼爪を伸ばして一気に距離を縮めようとした。

 そのとき、旋鋼爪が巻き付いた枝が激しい爆発を起こして木っ端みじんに消し飛んだ。支えを失ったグラントリーの体は地面に向かって真っすぐに落ちていく。空中でなんとか手近な枝に旋鋼爪を巻き付けると、グラントリーは少しだけ体を浮かせて下草の群れに転がり込み、すぐに離れた木の根元に移動して辺りの気配を探った。

 旋鋼爪が巻き付いた枝を射抜いた腕は素人ではない。相当の手練れと見た。ここに誘い込まれたのはやはり罠だったか。

 垂れた前髪を直そうとして手袋と膝に泥がついていることに気がつき、グラントリーはため息をついた。

 服が汚れてしまったではないか。替えの服は洗濯したばかりだというのに。

 汚れてしまった手袋を外し、ポケットから真新しい手袋を取りだして嵌めながら、グラントリーはまた考えはじめた。

 さてどうしたものか。

 動いている気配がないから敵のだいたいの位置はつかめている。しかし、ここに誘い込んだのだとすれば、何かしらの策があるのかもしれない。特にあの爆発する矢は厄介だ。直撃しなくても、一瞬こちらの動きが封じられてしまう。

「おおい。変わった術を使う、エグサの人ぉ」

 あれこれ考えていたグラントリーの耳に、男の声が聞こえた。

「なあ。出てきて、勝負をつけないか」

 いきなり何を言っているのだ。…待てよ。これも罠か。

「ここまで逃げてきたが、この先は森が切れて断崖絶壁。その向こうは海になっているみたいだ。こんなところに追い詰めるなんて、あんた、相当の使い手だな」

 いやいや。あんたが勝手にここに逃げてきただけだろう。

 木の端から目だけ出して声のした方を探ると、坊主頭のがっしりとした男が木々の途切れた先の岩場で仁王立ちしている姿が見えた。


 グラントリーが追い詰めた、この男の名はナイ。アレフォス島を襲い、ザレを奪ったマツイ族の精鋭部隊の長である。

 襲撃の日、クレスから追手を阻む役割を命じられた彼は、空を飛ぶように追ってきたライアンとオグロー川で遭遇した。ライアンの攻撃に窮地に立たされた彼はなんとか切り抜けるが、河原を逃げる途中で押し寄せた鉄砲水に足をとられて流されてしまった。自力で川岸まで泳ぐが、流木に左足の脛辺りを切り裂かれ、出血と疲労で気を失って倒れていたところをキノコ農家の孫娘のメノウに発見されたのである。

 ナイのその後の行動は、グラントリーの予測とほぼ一致していた。

 バーラの町に先行させた部下のジロウニには、二日経っても自分が現れなければアジトである骨董屋を整理してほかの仲間とともに島を抜けろと命じてあった。

 足の傷が悪化して生死の境を彷徨(さまよ)ったナイが、なんとか起き上がることができるようになるまでに三週間が経ち、彼はアレフォス島に独り取り残されたことを悟る。

 足の怪我を治して一刻も早く島を脱出する算段をつけようと躍起になったが、足の怪我は思うように治らず、走ることもままならない。焦る気持ちとは裏腹に、キノコ農家の老爺と孫娘との暮らしに慣れてくると、ナイの心の中を諦めと安堵の想いが占めるようになっていった。

 マツイ族にとって、巫女、クレスの存在は神に等しい。

 月光神アビの言葉を具現化するのが巫女という存在であり、『虐げられ、圧政に苦しむマツイ族を救い、我らの国を造る』というクレスの言葉に従って、何年も血なまぐさいことに手を染めてきた。多くの無辜(むこ)の民を傷つけ、そして多くの仲間を失った。生きていれば、それはこれからもずっと続くだろう。

 そんな自分の生き方に、疲れた、とナイは思うようになった。

 そのうえ、足を怪我して今までのような戦力にはなれないと考えたとき、もう十分だ、という思いに、ナイは(とら)われていたのだった。

「見て分かっただろうが、俺の足はもう限界だ。ここでけりをつけたいんだが、聞いてもらえないかね」

 ナイの心境など知らないグラントリーの耳に、その男の声はある種の諦めを含んでいるように響いた。

 そろそろ日も暮れる。

 どこまで、何を諦めているのかは分からないが、男の言うとおり、いま決着をつけなければ、夜の闇に紛れて取り逃がしてしまう確率が高いかもしれない、とグラントリーは思った。


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