月鏡縛魂
ルナデアの海の要塞である浮き島の中央にある開けた区画に、ミロイが少し俯いて立っている。
その目は黄色く濁っており、無機質な表情からは、何を考えているのか、その感情を読み取ることができない。
上半身を露にしたその肌に目をやると、二つの菱形をずらして並べたような小さな図象が、喉仏と左右の鎖骨の下、胸元の四ヶ所に黒々と浮かび上がっているのが見てとれる。
ぶるっと身震いしたミロイが短く息を吐きだすと、口元を緩め、くっくっくっ、と小さな笑い声を漏らした。
「素晴らしい。この身体は素晴らしい。力が漲ってくる。まるで、元から私の体だったかのようだ」
自分の両手を交互に見つめながら満足気に呟くミロイを、少し離れたところに立っていたガンズが怪訝な目で見ていた。
「その、げっきょう…なんとかってのは、うまくいったってことか」
「月鏡縛魂。無理に覚える必要はない」
ゆっくりと視線をあげるミロイを見ていたガンズは、「ふん」と言って、眉間に皺を寄せた。
「声はミロイのままだけど、中身はクレス…、なんだよな」
傍らの椅子に腰かけて目を瞑ったまま動かないクレスとミロイを見比べながら、ガンズはそう訊いた。
「『月鏡縛魂』は、『鏡心の術』の、さらに奥にある秘儀。相手の心を支配し、命ずるがままに行動させるのが『鏡心の術』だが、心身をまるごと乗っ取ってしまうのが『月鏡縛魂』だ。ガンズの目の前にいるミロイの中身が私かと問われれば、そう思ってもらって構わないだろう」
頭を掻きながら、「ああぁ」と言ったガンズは、「なんだか調子狂うな」と呟いた。
「月鏡縛魂は、術をかける側もかけられる側も心身にかなりの負荷がかかる。いまはまだ、それほど長くは続けられんだろう。始めるぞ、ガンズ」
そう言うと、クレスに支配されたミロイは、木が敷き詰められた広い空間の中央に向かって歩きだした。
ここは、ルナデア島に群生しているロイバブという木を何万本も組んで造られた、巨大な人工の浮き島である。
五角形をしたこの浮き島は、数十頭のアルケリオ(亀に似た大型の海洋生物)に引かせることで海原を自由に航行できる、ルナデアの要塞だ。ルマン島とアレフォス島を襲撃した際も、この浮き島が近海に停泊して前線基地としての役割を果たしてきた。
五角形をした浮き島の外周は、防風と防潮のための建物にぐるりと周囲を囲まれているが、中央は何もない広いスペースになっている。
敷き詰められたロイバブの上を歩いていたミロイが立ち止まり、ガンズに向きなおった。
「私には武術の心得は無いに等しい。お手柔らかに頼むぞ」
後をついてきていたガンズは手にしていた棒をミロイに投げ渡すと、短く溜め息をついた。
「それは分かってるよ。そもそもクレスは巫女なんだし、上に立って命令すればいいんだから、武術の訓練なんて必要ないんじゃないのか」
少し間をおいて、「いいか、ガンズ」と言って、ミロイは空を見上げた。
「我々は、ルマン島のゴブル、アレフォス島のザレを手に入れた。だが光石はあと三つ。ゴダール島のアグー、マキシマ島のギヤモンガに、ダグダイズ島のダーランダ。これらの島に、ルマン島とアレフォス島の光石が奪われたということがすでに伝わっていれば、敵はその備えを固くして待ち構えていることだろう。それに対して、我らの戦力はあまりにも少ない。想定の範囲内とはいえ、アレフォス島のエグサとの戦いでかなりの犠牲が出たからな。間もなく補充が来るとはいえ、戦力は落ちるだろう。今のこの状況で、光石を手に守備を固めている敵を倒すには、このミロイの身体を使って私が光石の力を使わなければ勝ち目はないのだ」
「確かに光石の力はすげえよ。俺は間近でこの目で見たからな。だけどよぉ、クレス」
何だ、という目でミロイがガンズを見つめた。
「クロエの王家の支配を終わらせ、マツイの国を創る。クレスのその言葉を信じて、俺たちは立ち上がったんだ。何の関係も無い奴らを何人も殺して、俺たちの手はもう真っ黒だ。いまさら死ぬことを厭う者は誰もいない。少しは、俺たちのことを信じて、頼ってくれてもいいんじゃねえか」
「信じているさ」
「だったら」と言いかけたガンズの言葉にかぶせるように、ミロイが「だから…」と言った。
「だから、誰も犠牲になってほしくはないのだ。私が光石の力を使いこなせるようになれば、それだけこの戦いを勝ちに繋げることができる。皆を信じているからこそ、私も死地に向かっていくことができるのだ」
上目づかいにミロイを見ていたガンズは、「ああ、もう」と言って頭をごしごしと掻いた。
「だめだ。昔っから、言葉じゃクレスに敵わねぇ」
手にしていた棒を振り上げると、「分かったよ」と言った。
「じゃあ、行くぜ。とりあえず、俺が振る棒を好きなように避けてくれ。持ってる棒で払ってもいいし、体ごと避けてもいい」
「了解した」
そう言って構えをとるミロイに向かって、ガンズはゆっくりと棒を振り下ろしていった。
男二人に両脇を抱えられて部屋に入ってきたミロイは無造作にベッドに投げ出され、うつ伏せのまま、ぴくりとも動かなかった。ミロイを見下ろす男たちは介抱することもなく、無言で部屋を出ていった。
「おいおい、大丈夫か、兄ちゃん」
その様子をじっと見守っていた、隣のベッドの男が小声で話しかけてきた。
その声に反応したのか、ミロイは肘を立て、うめき声を上げながら、やっとのことで仰向けに体勢を入れ替えた。
「だい、じょうぶ、です。アルゴさん」
青ざめた顔に汗を滴らせて、絞るようにミロイが声を出した。
「アルゴでいいよ。あんたに“さん”づけで呼ばれるほどの身分じゃない。それより、ちっとも大丈夫そうじゃないじゃねえか」
立ち上がったアルゴはベッドにたたまれていた毛布をミロイにかけてやろうとして、「おっ」と言って驚いた。
「おい、どうした、その印は」
「し、印…」
目を閉じたまま荒い息を吐いているミロイの襟元を広げると、小さな菱形を重ねた図象が喉と両鎖骨と胸元の四ヶ所に青黒く浮かび上がっていて、四つの図象を線で結べばそれもまた菱形になっているように見える。
「菱形を重ねた印が四つ、あんたの喉とかに付けられてるぜ。これは…、新しい呪いか」
ミロイに毛布を掛けたアルゴは、はあぁっ、と大きくため息をつき、自分のベッドに座ると腕を組んだ。
「今日は、いったい何をさせられたんだ」
こめかみに手を当てて、少し間をおいてミロイが口を開いた。
「分からない」
「分からないって、覚えていないのか」
「うん…。前のときは、体が勝手に動いて…、それでも自分でやっているっていう意識はあったんです。だけど今日は、所々しか覚えていないし、…それも、何か夢を見ているような感じで…」
ミロイはこめかみを押さえて、低い呻き声をあげた。
「もしかしたら、完全に体を乗っ取られたのかもしれないな。四つの印は呪力を高めるためのものか…。恐ろしい話だが、あいつらならやりかねない」
「…確かに。そうかもしれません」
アルゴは視線を落とし、左手で右手首のあたりを摩った。そこには赤黒い染みが網の目のように広がっていた。
「俺も、あの感覚は分かるぜ。あの女の声が聞こえると、体が勝手に動いてしまう。いや、声のとおりに無性に動きたくなる。そのせいで、俺はあんたの島を滅茶苦茶にしちまった」
こめかみを揉むのをやめたミロイは、しばらく虚ろな目で天井をじっと見ていた。




