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BOUNDARY ~境界線~  作者: 八木 康
アレフォス島
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 ゴーン、というバーラの町の夕刻を告げる鐘の音が微かに聞こえてきた。少し前まで土砂降りの雨が屋根を叩きつけていたが、また小降りになったのだろうか、今は静かになっている。耳を澄ますと、虫の声もちらほら聞こえてきた。

「さてと、そろそろ時間だな。片づけるとするか」

 食器を片付けながら、ライアンはふと、コバックの作ってくれる夕食をミロイと三人で楽しく食べる、こんな光景がもう二度とないのではないかという思いに浸っている自分に気づいて少し驚いた。

 コバックに引き取られて十年余り。彼が若い頃に仲間と建てたというこの家は、いずれ築く家庭を思い描いて建てたものだろう。ライアンとミロイの部屋も、生まれてくるであろう子どものために(しつら)えたものだったに違いない。

 あの日を境に、いくら姉の子とはいえ、いきなり二人の子持ちとなり、今こうして二人とも自立するまでずっと育ててくれた。コバックは当然何も言わないが、彼があきらめたり犠牲としたものはとても多かったのではないかと、ライアンはこの頃やっと思うようになった。

 そういえば、ここに来た頃は、やはり夜になると母が恋しくて、ライアンもミロイもぐずって泣くことが度々あった。そんなときコバックは何も言わずにその分厚い胸板に二人を抱きしめ、泣き疲れて眠るまでずっと頭を撫でてくれたものだ。もうあまり記憶にはないが、眠りに落ちていく中で嗅いだコバックの少し汗臭い体臭を、今でもふと思い出すことがある。

「エグサになったらあまりここにも来られないだろうから、邪魔者も居なくなるし、コバックもそろそろ誰かいい人と結婚したらどうなの」

 洗いものをしながらライアンが何気なく訊くと、隣に来たコバックが片付ける食器を手にしたまま動かなくなった。そっと顔を見ると、リル酒でも赤くならない顔がほんのりと赤くなっている。いかつい顔の中心をほんのり赤く染め、何か言いたげにもじもじとする姿は、ある種の凄みを感じさせた。

「じ、実はな…」

「う、うん」

「実は…、言おうかどうしようか迷っていたんだが、これからあまり二人にも会えなくなるかもしれんとなると、やっぱり今日言っておくべきかと思って…、でもやっぱりはっきりしてからの方がいいのかもと考えたり…」

「あのぉ、前置きはいいからさ、その様子だと、もしかして結婚するの」

 身をくねらせて「あ、いやぁ」と言うコバックの脇をつつき、ライアンは「おい、ミロイ、コバックが結婚するんだって」とテーブルを拭いていたミロイに大声で伝えた。「なに、なに」と言ってミロイが飛んでくる。

「誰と、誰と、ねぇ、誰と結婚するの」

「あ、いや、まだすぐという訳ではなくて、結婚を前提に、ということで」

「いいから、相手は誰なの」

 声を揃えて言う二人をちらっと見て、溜め息をついて上を見上げるコバック。

「ソニアさんだ」

「ソニアさんて、ココのお母さんのソニアおばさん」

「まあ、そうなるな」

 ライアンとミロイは顔を見合わせ、一拍おいて、「えー」と絶叫した。

 ココはバーラでパン屋を営む家の一人娘で、ライアンたちとは同い年の幼なじみだ。

 ライアンたちがコバックに引き取られ、コバックがサージェンなどのエグサの務めで家を空けなければならないとき、漁師の家に生まれてバーラのパン屋に嫁いだ、こちらはコバックと幼なじみのソニアのところにライアンたちはよく預けられていた。だからココとは小さい頃から一緒に遊んでいたし、ココがコバックの家に泊りがけで遊びに来ることもあったので、十カ月ほどお姉さんのココとライアン、ミロイの三人は、姉弟(きょうだい)と言ってもいいような間柄である。十歳を過ぎる頃からはライアンたち二人で留守番をするようになったので少し疎遠になったが、修学院に入るとココとは毎日顔を合わせるようになり、年頃になって以前のようにじゃれあって遊ぶようなことはないが、それでもソニアを含めて家族同然の付き合いは続いていて、バーラでパンを買うのはいつもソニアとココの店のパンだった。

 コバックとソニアがそんな仲になっていたとは露知らず、意表を衝かれたライアンとミロイはしばらく言葉がでなかった。ソニアの夫、ココのお父さんは、ココがまだ三歳のときに病気で亡くなったと、ずっと前に聞いたことがある。それから女手ひとつでパン屋を切り盛りしながらココを育ててきたソニアは小柄な女性で、歯に衣着せぬというか、思ったことをばしばし口にするさっぱりとした気性の女性(ひと)である。幼い子どもを独りで養うという、似たような境遇のコバックが、何かとソニアを援助していたことはライアンもよく知っている。だがそれにしても、二人が結婚するとは、コバック本人の口から聞いても信じられない想いの方が強かった。

 コバックとソニアのやりとりで思い出すのは、焼きあがったパンを店先に並べるのを手伝おうとしたコバックが、転んで店頭にあったパンをすべて床に落として売り物にならなくしてしまい、ソニアにたんまり怒られて小さくなっていたことや、声が大きくてうるさいとか、話が長いとか、図体ばかりでかくて邪魔だとか、ソニアがコバックをどやしつけている光景ばかりで、修学院でも厳しい指導と実直な人柄で生徒からも一目置かれているコバックがソニアの前ではまったく形無しになってしまうのである。ひょっとしたら、コバックはお(しと)やかで従順に従う女性よりも、体格差をもろともせずに張り倒してくるぐらいの勢いがある方に惹かれるタイプなのかもしれない。

 それはそれでお似合いだと言えなくもない、とライアンは妙に納得する気分になっていた。

「え、じゃあ、ココと僕たちは、本当に姉弟(きょうだい)になるってこと」

 ミロイがそう問いかけるのを聞いて、なるほどコバックとソニアが結婚したらそういうことになるのか、とライアンは思った。

 幼なじみであるココと本当の姉弟になる、というとちょっと気分は複雑だ。

 小さな鼻と口が愛らしい顔立ちで修学院での成績もよく、しっかり者のココなのだが、はっきりものを言うところは母親譲りであり、なおかつどういう訳だかとても口が悪いのである。ソニアを『早口ばばあ』と呼び、ライアンのことは『天然ボケ』、ミロイは『お調子やろう』と小さい頃からあだ名され、最近では単に『天然』と『お調子』と呼んでいる。

 パン屋の客に対しても似たようなもので、独り者のおじさんには『あんたはロクなもん食ってないんだからうちのパンでちゃんと栄養取りな』とか、常連のおばあさんにも『ばばあ、まだ死んでなかったんだ』などと呼びかけるのは日常茶飯事だ。なかにはココの毒舌が聞きたいという年寄りやおやじどもがいたりして、看板娘としてそれなりに人気があるというのだから人の気持ちは分からんものだと思うのである。

 修学院に入ってから、少し大人しくなったような気もするが、武術訓練などで『てめぇ、ぶっ殺すぞ』とか、『かかってこいや、弱虫』と初めて言われた相手は、ココが言ったと思えなくて、大抵はちょっと引いてしまうのだった。ライアンたちはもう慣れっこにはなっているのだが、はっきり言えば、苦手なのである。

「まあ戸籍上はそうなるかな。だけど、まだまだ先の話だぞ。それに、いままでも姉弟みたいに仲良しなんだから、何も変わらんだろう」

 微妙な顔をしているミロイもやはり似たような思いをしているのだろう。

 それでも何といってもコバックが幸せになることは嬉しいことだ。

 二人の甥という存在がコバックの人生を変えてしまったのは間違いのないことであり、そのことが胸のどこかにいつもつかえていたライアンとしては、(しがらみ)から解放されたコバックが、自分自身の人生を生きはじめる、という出来事で、心がいくらかは軽くなったような気がするのだった。だけど心のどこかでは、コバックがソニアに取られるような寂しい気持ちもあったのだが。

 まあいいや。これからも自由な時間が取れることがあったら、ミロイと連れ立ってコバックの料理を食べさせてもらいに来るとしよう。

 ちょっと眉間に皺をよせて、『また来たのか』などと言いながら、腕を振るった旨い料理を食べさせてくれるコバックの姿が目に浮かぶ。

 ソニアと結婚したら美味しいパンも食べ放題になるに違いない、と思ってライアンはにんまりとした。


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