イゲル先輩
パラレの基本動作ですら、結構きついな。と、ライアンは思った。
寝転んで空を見上げ、忙しなく吐きつづける白い息が立ち昇って消えていく様を眺めながら、萎えそうになる気持ちとは裏腹に、久しぶりに体を痛めつけたことで得られる妙な快感にライアンは包まれていた。
そうだったなぁ、この感じ。
修学院でスラック先生やジェシカ先生に扱かれた毎日。修練は辛かったが、それでも身体を酷使しているうちにそれが心地好い快感に変わっていく時がある。足腰に溜まった鈍い痛みが、長いこと忘れていた感覚を思い出させてくれた。
オズマンの船に救われてから、ずっとベッドに伏せっていることが多かったので体がかなり鈍っているが、続けているうちに慣れてくるだろう。
そう思ってはみたものの、さすがにこれ以上やるのは無理だと思い、ライアンは這うようにして診療所に戻っていった。
次の日は、筋肉痛に悶えながら、ライアンはパラレの基本動作を繰り返した。
メイベルさんからは、「あまり根を詰めると、また寝込むわよ」と言われたが、幸い体調は崩していない。むしろ、久しぶりに体を動かしたことで、あの厄介なダルさも無くなってきている。ザレの力を意識しようとするが、ザレの結晶は何の反応も示してはくれなかった。
三日目になると、筋肉痛はほとんど治まり、身体もだいぶ軽くなったような気がしたが、体勢を維持しながら向きを変えていくと、どうしても呼吸を止めてしまう。ひとまず、呼吸は置いておいて、基本動作を体に覚えこませることを徹底してやることにした。
半日かけて体を動かし、今日はこの辺にしとくか、と携帯用の小瓶に入れた水を飲んで一息ついていると、ふと後ろに視線を感じて振り向いた。
「兄ちゃん、パラレをやってるみたいだけど、なんか、がくがくしてて、全然できてないね」
声をかけてきたのは、この前、ライアンの拝領小刀を盗って走り回った男の子だった。確か、イゲルという名だった。ジン王女にぶたれる原因を作った悪ガキである。
「悪かったな。今日は盗めるようなものは持ってないぜ。忙しいから、あっちに行ってくれよ」
ライアンにそう言われたイゲルは、少し俯き加減になりながら、ゆっくりと近づいてきた。
「あの…、あのさ」
「…なんだよ」
「この間は、ごめんよ…。まさか、ジン王女が来るなんて思ってなくてさ」
手癖の悪い、いたずらっ子だと思っていたイゲルが神妙に謝る姿を、ライアンは黙って見ていた。
「俺、あの後、ジン王女に話したんだ。俺が、兄ちゃんの大事なものを盗ったから、追いかけっこになって転んじゃったんだ、って。そしたら、ジン王女から、ちゃんと兄ちゃんに謝ってこい、って言われたんだ」
「ふーん…」
「なんだよ。人がせっかく謝ってるのに」
「お前はジン王女から言われたから誤っているんだろ。つまりは、本当は悪くない、と思っているわけだ」
「違うよ。本当に悪かったと思ってるよ」
イゲルはライアンの前に腰を下ろし、股の間に組んだ手をしきりに握ったり離したりしていた。
「俺、人が持ってる物が、急に欲しくなっちゃうときがあるんだ。いけないことだとは分かってるんだけど、気がついたら体が勝手に動いちゃってるんだ」
冷たい風が、さあっ、と二人の間を通り過ぎ、イゲルが鼻を啜った。
「分かるよ。悪戯ってのは、そんなもんだろ」
イゲルが顔を上げて、ライアンを見つめた。
「なんだよ、偉そうに。年だってそんなに違わないのに、大人みたいな喋り方して」
「お前、ほんとに嫌な奴だな」
「ああ…、ごめん。これも俺の悪い癖だ。なんか、人がムカつきそうな言葉を、ついつい言っちゃうんだ」
ライアンは思わず、笑いそうになった。グラックス先生が言っていた通り、根は素直な子なのかもしれない。
「もう、いいよ」
「もういい、ってのは、許すってこと、それともお前なんかどうでもいいってこと」
「許すってことだよ。面倒くさいなぁ」
ライアンは立ち上がって大きく背伸びをした。
「じゃあ、俺は帰るわ」
「なんだよ。やめちゃうのかよ」
「まだ始めたばかりで体が痛いんだよ」
「情けねえなぁ」
「じゃあな」
ライアンが診療所に戻っていくのを、イゲルは黙って見送っていた。
そして、また次の日。
ライアンがパラレの基本動作の練習をしていると、イゲルがひょっこり現れた。
「一人じゃ寂しいだろうと思って、来てやったぜ」
「別に、寂しかないよ」
ライアンの言葉は無視して、イゲルは隣に並ぶと片足立ちになってしゃがみ、パラレの基本動作を始めた。ライアンよりも動きは滑らかで、淀みがない。
「お前、家の手伝いとか、しなくていいのかよ。大きな網元の家の子なんだろ」
「家の手伝いなんて、させてくれないよ。それよりも、読み書きとか、算術とかやらされててさ。俺、頭悪いから、何度やってもなかなか覚えられなくて…。こうやって体動かす方が好きなんだよね」
「俺も算術は苦手だったなぁ」
「兄ちゃんも、頭悪そうだもんな」
「なんだとぉ」
ライアンが顔を向けると、「体勢崩しちゃ駄目だよ」と、しれっとした顔でイゲルが言った。
やはり、むかつくガキである。
横に並んで基本動作をやっていたイゲルは、しばらくするとライアンの横に立ち、「背中が曲がってる」、「足が伸びてない」、「下を向かない」などと言いながら、そのうち手取り足取り指導を始めた。うるさい奴だなと思いつつ、イゲルの言う通りにやっていると、不思議と呼吸も楽になり、動きも滑らかになってきたような気がした。どうやら、パラレに関してはイゲルがかなり先輩のようである。
三十回ほど基本動作を繰り返した後、水を飲んで休んでいると、イゲルが懐から何かをとり出してかじり始めた。
口をもぐもぐさせながら、懐から同じ物を取り出すと、ライアンの鼻先に突き出した。
「うちで作ってる、小魚の干物。旨いぜ」
手に取って、イゲルと同じようにかじると、磯の香りと魚の甘みが口の中に広がった。
「うん。旨い。ありがと」
しばらく二人とも無言で干物を頬張っていると、空の高いところで鳥の甲高い鳴き声が響いた。獲物を狙っているのだろうか、鳥は旋回しながら何度も鳴いていた。
「兄ちゃん、アレフォス島って島から来たのか」
「…ああ、そうだよ」
「どんな島」
「うーん…。ここよりもあったかくて、木がいっぱいあって、川があって、畑があって、ゴダールと同じように魚も獲れる、いい所だよ」
「それから」
イゲルに問われるまま、ライアンはアレフォス島のことを話した。
北に聳える山々に、山裾を覆う森。山から流れる川は大地を潤して、海にまでその養分を運び、島に暮らす人々は、有り余るその実りを千年に渡って享受してきた。そして、ロクト寺院とそこに仕えるエグサが島を安定的に統治し、長く平和を維持していた。
もう少しすれば、ガイル山は雪をかぶったその美しい姿を見せる頃合いだ。
アレフォス島の光景を思い描いていると、ふいにクロウの顔が浮かんだ。
クロウは無事だっただろうか。今、どうしているんだろう。
あの時、クロウは黙ってライアンについてきてくれた。俺と一緒じゃなければ、巻き添えになることもなかったのに。
ふと頭を巡らすと、クロウが何も言わずに横についてくることがよくあったな、と、今更ながら思い至った。口数が少ないクロウが何を思っていたのかは知らないが、あの頃は、クロウは寂しがり屋なのだろう、くらいにしか考えていなかった。だけどきっと、自分のことをずっと気にかけてくれていたんだ、と今は思う。
大切な友だちを危険な目に合わせてしまったのは俺のせいだ、と自責の念に駆られていると、イゲルが話しかけていたのに気がついた。
「綺麗な島なんだろうね、アレフォス島は」
「ああ」
「そんな島を襲った奴らが、今度はゴダールを襲ってくるんだ」
「え、お前も知ってるのか、その話」
「島の人達は、その話ばっかりしてるよ。海と陸の兵士を募集してて、しかも王宮から給料が出るっていうから、うちの漁師たちの間でも志願するって言う人が大勢いるんだ」
「そうなんだ」
「俺も、もう少し大きければ志願するのになぁ」
白波が立つ沖合いに目をやりながら悔しそうに呟くイゲルを見ていると、ふいに、クロウが言った言葉が耳に蘇ってきた。




