パラレ
片足立ちという、最初から不安定な体勢を強いるパラレなら、初見の相手であってもジェシカ組で培った組手の技が十分に通用するはずだ。走りこんでいって手前で体勢を低くし、腰に体当たりして足を絡めれば、いくらダグ・ブリンガとかっていう称号を持つアイザックでも倒せるに違いない。
十歩も走れば届く距離に、アイザックは両手を広げたまま、涼しい顔をしてこちらを見ている。
ライアンは両足が同時に着かないように気をつけながら、軽くステップを踏んで、猛然と走りだした。
アイザックの手前で体勢を低くし、腰のあたりに右肩をぶつけるつもりで飛び込みながら、アイザックの軸足を刈るために左足を大きく前に出す。
だが、体に触れたと思った瞬間、ふわりと身体が浮き、半回転しながら宙を飛んで背中から地面に落ちていったのはライアンの方だった。
咄嗟に受け身をとったが、背中を叩きつけられたせいで息が苦しい。
咳き込みながらようやく顔を上げると、姿勢を変えずに立っているアイザックがライアンを見て微笑んでいた。
「どうした。もう終わりかい」
立ち上がりながら息を整え、もう一度突っ込んでいく。
結果は、同じだった。
今度はアイザックの服を掴むことができたが、その感触は真綿のように柔らかく、次の瞬間には体が宙を舞って地面に落ちていった。
喘ぎながら立ち上がり、アイザックに向かって行く。
何度も、何度も、同じように地面に転がることを数十回繰り返し、ついにライアンは起き上がることができなくなった。
寝転んだままの視界に、吐く息が白い煙になって空へと消えていくのが見える。喉が渇き、汗が吹きでた首筋から湯気が立っているのが分かった。
「このへんにしとくか」
喘いでいるライアンを見下ろして、アイザックが手を出した。手を掴んだライアンを引き起こして、アイザックはライアンの背中に付いた枯れた葉っぱを払い落とした。アイザックの背中からも白い湯気が立ち昇っている。
「さすがエグサ、といったところかな。最初は、手を使わないでもいけるかと思ったんだけど、正直、君がここまでやるとは思わなかったよ」
「何も…、何、も、…できなかった」
肩で息をしているライアンの頭に、アイザックはそっと手を置いた。
「そんなことはないよ、ライアン。君は筋がいいと思う。ただ、視線も、体の動きも、ちょっと直線的すぎるかな。もっと、こう、流れを意識しないと」
手のひらをゆらゆらと回すアイザックを見つめて、ふーっ、と大きく息を吐いたライアンはゆっくりと立ち上がった。
「もう一度、お願いします」
「いや…。組手で学ぶより、君に宿題をあげよう」
「宿題…、ですか」
「ああ。今度、俺が来る時までにマスターできていれば、次の宿題を出そう」
ライアンは腰に手を当てて、「はぁ」と、気のない返事をした。修学院で、算術や読み書きの宿題が出されても、今までちゃんとやった試しがなかったのである。
「そんな顔すんな。『遥かな島へ、まず櫂を漕げ』って、言うだろ」
「知りません。そんな言葉」
「そうか、これはゴダールの格言…、いやルマン島のだったかな…。まあ、どっちでもいいや。要は、何事も踏み出すことが重要だってこと」
少し距離をとったアイザックは、「まずはパラレの基本動作を習得しよう」と言って片足立ちになると、肘を上げたまま両手を胸の前で合わせた。
「俺の動きをよく見ておけよ」
アイザックは膝を伸ばした右足を腰の高さまで上げ、そのままゆっくりと腰を落としてしゃがみこんだ。
その姿勢を保ちながら地面に着けている左足をつま先立ちにすると、前に伸ばしている右足を伸ばしたままゆっくりと右に回す。右足を体と平行の位置まで回すと、今度は右足をそのままにして、体の向きを右に回していく。同じ動きを四回すると、元の位置に戻ってゆっくりと立ち上がる。
次は軸足を右足に入れ替え、上げた左足を左回りに動かしながら、先程と同じ要領で回っていく。
左回りで一周すると、今度は胸の前で合わせていた手を横に大きく開き、肘を伸ばしたまま閉じたり広げたりする動きを加え、下半身は今までと同じように、右足と左足を軸足にして回っていく動作を繰り返す。
一連の動きはとてもゆっくりとしたものだったが、一度も止まることはなく、その姿は、ゆるやかな流れの水面を揺蕩う一枚の木の葉のように見えた。
アイザックの動きは何か厳かな舞を舞っているようにも見え、ライアンは時間が経つのも忘れて見入ってしまっていた。
「っていう感じ」
立ち上がったアイザックは、そう言いながらライアンに歩み寄ってきた。
「動き自体は単純だろ」
「はい」
「動きは極限までゆっくり。でも止まってはいけない。実際やってみると、慣れるまでは結構きついぜ」
真っすぐ見つめるライアンが頷くと、アイザックは微笑んだ。
「厳しい修業は、慣れっこかい」
「そんなことはないです」
「大きくゆっくりと呼吸して肺に空気を取り込み、それが血液や体液で体の隅々にまで流れていくのをイメージしながら修練するのがパラレの重要な要素なんだ。上達すると、身体の周りの空気や水の流れ、目の前の相手の周りの空気の流れも感じることができるようになる」
アイザックは伸びをしながら、「さてと」と言った。
「俺はこれでもう行かなきゃならないから、ライアンは今の動きを練習して、しっかりマスターしてくれ」
「はい」
「そして君の場合は、それ」
アイザックがライアンの左手を指さした。
「君の左手にある、ザレの結晶、とかっていうものも意識する必要があるんだろ」
…ザレを意識しろ…
…ザレを感じろ…
…ザレと同調しろ…
コバックや修学院の先生から、幾度となく投げかけられた言葉。
だけど…、と思ってしまう。
今更ではあるけれど、ザレを意識するとは、いったいどうやればいいのだろうか。
これまでいくら念じてみても、ライアンがザレを意図的に感じることができたことは一度もなかった。ナルッサでザレに選ばれたときや、アレフォス島が襲われてスダジイに力をもらった時は、ザレの方から語りかけてくれたのだった。
しかし、そんなことを言っていてもしょうがない。今は、自分の手の中にザレの結晶がある。これを意識して順応することができなければ、ザレの力を取り戻せないのだ。
「やってみます」
「おう。がんばれよ」
アイザックはそう言うと、大きく手を振りながら港の方に行ってしまった。
座ったまま、アイザックの姿が見えなくなるまでぼんやりと眺めていたライアンは、両手で自分の頬を叩いて、「よし」と言った。
立ち上がったライアンは目を閉じ、ゆっくりと息を吸って吐いた。途切らさないように気をつけながら、ゆったりとした呼吸をしばらく続けたあと、気持ちが落ち着いたところで腕を上げ、胸の前で両手のひらを合わせた。
アイザックの動きを思い出しながら右足をまっすぐ伸ばして腰の高さまで上げ、ゆっくりとしゃがみこむ。
地面についている左足をつま先立ちにすると、途端に体勢を保つのが難しくなり、上げている右足の太ももが、ぷるぷると震えはじめた。なんとか堪えて、右足を右に回していく。右足が体と平行になるまで回したところで、今度は体の向きを右に回していくのだが、回し始めたところでバランスを崩して尻もちをついてしまった。
立ち上がって、もう一度最初からやり直す。
今度はなんとか一周回ることができたが、動いている間はほとんど息を止めていたことに気づいて、また最初からやり直す。
呼吸に意識を向けるとバランスを崩す。バランスを取ろうとすると、息をすることを忘れる。
何度か繰り返すうちに右足がぱんぱんに張ってきたので、上げる足を左足に変えてやってみるが、軸足の右足が張っているせいか、なかなか思うように動かせない。何回かやっているうちに、体中が痛くなってきて、とうとう動けなくなってしまった。




