修行のはじまり
「もちろん、ライアンの大切なものを盗って逃げ回るなんて、イゲルのしたことは悪いことだ。私も、今度会ったら彼に注意しておくよ」
ため息まじりにそう言ったグラックスが急に咽て咳きこんだ。
「すまないが、少し休ませてもらうよ」
背を丸め、ごほごほと咳きこみながら部屋を出ていくグラックスを横目で見送ると、ライアンは力が抜けたまま、しばらくベッドに腰かけていた。
「ほい。起きた起きた」
次の日の朝早く、一度目が覚めた後もベッドの中でうとうとしていたライアンは、アイザックの陽気な声に叩き起こされた。
ベッドにどっかり腰かけると、アイザックは「実はさ、これからちょっと、忙しくなりそうなんだ」と言った。
「海軍の話なら、グラックス先生から聞いています」
毛布を剥いで起き上がったライアンがそう言うと、
「そうか。だとは思っていたけど、じゃあそういうことで、これからパラレの修行を始めるよ」
と、アイザックは笑いながらライアンの肩を叩いた。
「できれば週に一回ぐらいは様子を見に来たいと思っているけど、どうなるか分からない。基本的にはライアンが自分で修行するしかないんだ。今日はその一回目、っていうこと」
目をこすりながら欠伸をしていたライアンはアイザックにベッドから引っ張り出され、急かされながら手早く着替えを済ませた。
外に出ると朝の凛とした空気が二人を包む。
霜が降りた地面を歩く度に、踏みしめた足がざくざくと音を立てて沈んでいった。
広場まで歩いていくと、アイザックが振り返った。
「これから俺と、パラレの勝負をしよう」
「え」
「修行をする前に、パラレとはどんなものか、それを体感した方がいいんじゃないかと思ってね。もちろん、初心者のライアンにはハンデをあげるよ」
ライアンから十歩ほど距離を取って振り返り、アイザックは両腕を平行に大きく開いて片足を上げた。
「知っていると思うけど、パラレは片足、もしくは片手、それ以外の体の部位が地面に着いたら負け。両足が地面に着かなければいいから、走っても構わないし、手と足をうまく使って側転する、なんてことも可能だ。いずれにしても、俺が今とっているこのポーズがまず基本の形になるよ」
アイザックをまねてライアンも片足立ちになって両手を広げたが、バランスを崩して上げた右足を一度地面に着けてしまった。
「揺れる船の上で、片足立ちになって押し合いっこをした船乗りたちの遊びがパラレの起源になっている、なんて話もあるけど、揺れない地面の上でも片足だけで立つのはバランスをとるのが難しいだろ」
「はい」
答えながら体が傾き、ライアンは手をぐるぐる回して元の体勢に戻った。
「さあ、何をやってもいいから、俺を倒してみな。蹴っても、殴っても、体当たりしてもいい。パラレでは反則負けだけど、初めてのライアンは、特別に両足をついてもいいぜ」
ライアンの顔を見ていたアイザックの眼がきつくなった。
「ライアン。俺に遠慮なんかするなよ。全力で来ないと、怪我するぜ。君は、厳しい修行を積んでロクトのエグサになったんだろ。その実力を俺に見せてくれよ」
いつになく厳しいアイザックの声音に、心のうちに流れるいい加減な思いに気づかされたライアンは、上げていた右足を下ろして立ち尽くした。
そうだ…。
冗談のように朝っぱらからパラレをしようと言われて、アイザックに本気でぶつかっていこうとは思っていなかったかもしれない。
俺はパラレをただ教わるためだけにゴダールまで来たんじゃない。
ザレの力をもう一度取り戻し、ルナデアの者と戦って、ミロイを助ける。そのためにパラレを習得するんじゃなかったのか。
ライアンは両手を広げ、もう一度右足を上げると、真っすぐにアイザックを見つめた。その様子を見ていたアイザックの口元に、ふっと小さな笑みが浮かんだ。
同じ姿勢を保ったまま微動だにしないアイザックの立ち姿は、威圧感に溢れ、どこにも隙が無いように見える。
アイザックと向き合っているライアンの脳裏に、ジェシカ教官のもとで嫌になるほど修練した授業の光景が蘇ってきた。
ジェシカ教官は、剣や弓を使った武技の向上よりも、相対した相手と向き合って素手で戦う組手を好み、お互いにしっかり組み合って技をかけることを重視していた。相手に触れているからこそ分かる、微かな体の動き、息遣いから、次に相手がどう出るかを予測して先手を打つ。
「目の前にいる相手が何を思い、何をしようとしているのかを考え、感じることは、延いてはザレの力を会得し、心身の発達にも繋がるのだ」
と、繰り返しジェシカ教官は生徒たちに諭していた。
ちなみに、三年に一度行われているスゲラージというエグサの武術大会で、試験官が『勝負あった』とする判断する基準が、地面に背中がついたとき、若しくは戦闘不能とみなされたときとされているので、ジェシカ教官が行う組手修練でも地面に背中がついた方が負けとなるルールで行われている。
だから、アイザックからパラレのルールを聞いたとき、ジェシカ組の組手修練と同じだと、ライアンは思ったのだった。
片足立ちという条件はあるけど、要は、相手を倒せばいいんだ。
ライアンの目蓋に、修学院でのできごとが蘇ってきた。
ジェシカ組に、アルデンという大男がいた。
ライアンたちと同い年とは思えないほど背が高く、筋肉自慢のリュート導師に負けないくらい体格がいいアルデンは、トンフ(牛に似た動物)の飼育を家業としている家の子で、放牧で迷子になったトンフを肩に担いで連れて帰ってくる、という噂があるほど並外れた力の持ち主だった。
その反面、すばやい動作は苦手なのだが、いざ組手となるとその体格とパワーの差は歴然で、敵うものは誰もいなかった。
押しても引いてもびくともせず、蹴っても殴っても痛がる素振りも見せない。大きな手で掴まれたら最後、引きはがすように放り投げられて終わりである。
このアルデンに、ライアンは何度か勝ったことがある。
何百回と組んでいるうちに、アルデンが相手を投げようとするときに前かがみになりながら右足を踏み出す癖があることに気づいたのだ。
そのタイミングを見計らい、踏み出すアルデンの右足首を左足で内側に向かって払うと、アルデンは半回転して呆気なく背中から地面に倒れこんだ。
何が起こったのか、と目をぱちぱちさせているアルデンの手を取って起こしてやると、滅多に褒めないジェシカ先生がライアンの頭をぐりぐり撫でまわした。
「今のは見事だったぞ、ライアン。大きな相手でも、動きを読み、体のバランスを崩すことで倒すことができる。よく覚えておくんだな」
その後も、アルデンの大きな手に掴まって投げ飛ばされることも度々あったが、二回に一回はアルデンを地面に転がすことができるようになった。アルデン相手に勝率五割を記録したのはライアンだけである。
アルデンに勝つことができるようになると、ほかの相手と組みあっても、次にどう動くかが次第に分かるようになってきた。
息遣い、手や足に力が入る瞬間、投げに入る前の癖。それを見極めて、足を払い、押し倒し、抱えて投げると、面白いように技が決まる。
さらに上達すると、揺すったり、足をかけたりするふりをして、技が決まりやすいように相手の動きを仕向けることもできるようになってくる。
初めのうちは苦手だったこの組手が、技が決まる快感を覚えるうちにライアンはいつの間にか得意になっていたのである。




