大将はわしじゃ
次の日の朝、朝食を済ませ、さて今日は何をしようかと考えていると、メイベルさんが部屋に来てグラックス先生が呼んでいると伝えてくれた。グラックスは昨日の夜遅くに戻ってきていたらしい。
診察室のベッドに座ったライアンの体のあちこちを触り、口を開けさせて中を覗き込んだグラックスは、「うんうん」と言いながら椅子に腰かけた。
「予想したよりも良い状態のようだね。左腕の痣も随分薄くなっているように見えるが、どうだい、まだ痛むかい」
「まだ重い感じはありますけど、前よりはだいぶ良いです」
左腕を擦っているライアンの表情を診て、グラックスは小さく頷いた。
「では早いうちにパラレを始めるといい。といっても、君を指導するはずのアイザックなんだが、少し忙しくなりそうでね」
グラックスはそう言うと、ゴダールに初めて創設される海軍について話してくれた。
ナブー女王とオズマン、ピガンダ隊長との話し合いが行われた日の翌朝、オズマン邸に呼ばれたグラックスとアイザックは、来るべきルナデアの襲来に対抗するために船をかき集めて海軍を創り、その大将にアイザックを任命するということを聞かされた。
「俺なんか、大将の器じゃない」
と固辞したアイザックだったが、ナブー女王の直々のご指名だとオズマンに言われ、渋々了承したのだそうだ。
グラックスとアイザックは、その日のうちにオズマンとポトと一緒にインシュル島に渡ってドラン家の屋敷に向かい、アイザックの父親でドラン家当主であるマックスに面会した。
アイザックの父、マックス・ドランは、オズマンより十歳以上も上の六十代半ば。年から言えば、息子に当主の座を譲って隠居してもいい頃合いなのだが、無駄な肉のない引き締まった体つきは壮健そのものなのであった。いくつもの皺が刻まれた日焼けした顔からは、三つ編みにした二本の白い髭が長く伸び、盛り上がった鼻梁と三白眼の目は、いやでも厳つい印象を見る者に与える。
普段は誰にでも気さくに話しかけるアイザックも、マックスの前では目線を下にしたまま大人しくしていた。
オズマンがこれまでの状況をざっと話し、敵の次の標的がゴダールだと仮定して海軍を創設することになったことを伝えるのを、マックスは腕を組んで目を閉じたままじっと聞いていた。
「で、船の供出については承諾してくれるかね」
オズマンの問いに、マックスはしばらく目を瞑って口をへの字に曲げたまま身じろぎもしなかったが、ふいに目を開けると目の前に座っているアイザックを見た。
「それより、そこにいるのはうちのバカ息子のように見えるが、どうしてこいつがここにおるんだ」
いきなり睨まれたアイザックは、思わず背筋をぴんと伸ばす。「まあまあ」と言いながら、オズマンが手で制した。
「アイザックは今、デニスのもとで働いているんだ。アイザックがまだ父親に話していないというんで、報告せねばならんと思って、わしが連れてきたのだよ」
マックスは、「ふん」と小さく言って横を向いてしまった。
「それから…、これが重要なんだが、さっき話した海軍の大将に、アイザックを据えようというのがナブー女王のお考えだ」
「なに」
眉間に皺をよせて振り返ったマックスに、オズマンはピガンダ隊長から聞いたインシュル島の祭りでのアイザックの活躍ぶりについて話して聞かせた。
「ナブー女王も、随分とまあ、買いかぶってくれたものだ」
オズマンの話を聞いたマックスはそう吐き捨てた。
「話は分かった。ルナデアとかいう、東の果ての島の民がアグーを奪いに来る、なんて話は俄かには信じられんが、ベリー家とブリューワ家が直々に持ってきたからには、単なる与太話ではないのだろう」
オズマンたちは、ほっと胸をなでおろした。
「ただし…、条件がある」
「条件…」
「船を出すことに異論はないが、うちが出せるのは七隻がいいところだ。ルマン島から帰ってきていない船がいくつもあってな。わしも気にはなっていたんだが、まさかルマン島でそんなことが起きているとは思いもせんかった」
「構わん。出せる船で船団を組むしかあるまい」
「もう一つ」
「もう一つ…、なんだ」
「そこのバカ息子が海軍の将となる件については、承服できん」
「なんと…、ナブー女王のご指名だぞ」
「いくら女王とはいえ、海のことについては素人だ」
「それはそうだが…」
面倒くさい展開になってきた、と皆が項垂れると、マックスが大きく咳払いした。
「海軍の将には、わしが就く」
マックスを囲んでいた全員が、えっ、と顔をあげ、「父上」とアイザックが声をあげた。
「それは危険すぎます、父上」
「お前に心配されるほど、老いぼれてはおらぬ」
「老いぼれたなんて思ってませんけど、今回はただの航海と違います。父上にもしも何かあったら、どうするおつもりですか」
「それこそ要らぬ心配だ。出来の悪い長男はブリューワ家に引き取ってもらい、ドラン家はお前の弟がしっかり切り盛りしていける。何も心配することはない。それに、わしは死ぬつもりは微塵もない。ルナデアだか何だか知らんが、ゴダールの海を荒らす者は何者であろうと蹴散らしてくれるわ」
オズマンは思い出した。マックスは、アイザック以上に血の気が多く、そして無類の負けず嫌いであった。
「ナブー女王とわしの顔を立てて、アイザックをせめて副将にしてくれんか」
マックスはしばらく考えてから、「しょうもない」と呟いた。
「わしの後ろの船で、ゆっくり観ているがいい」
「という訳でね。アイザックは、つきっきりで君を指導することはできなくなってしまったけど、定期的に顔を見せると言っていたよ」
知らないところでルナデアを迎え撃つ準備が着々と進んでいるのだ、と思うと、背中に無数の虫が這ってくるような焦燥感にライアンは包まれた。
「私がパラレを教えられればいいのだが、久しぶりに船でインシュル島に行ったら、少し疲れてしまってね」
言われてみれば、グラックスの顔は少し面窶れしているように見えた。
「未来を見る力で、自分の具合が悪くなることは分からなかったんですか」
グラックスは眉毛を上げてみせると、優しく微笑んだ。
「そこまでは分からなかったね。ただ、今回は具合が悪くなると分かっていても行かなければならなかったろうけど」
そう言うとグラックスは手を伸ばし、ライアンの頬に触れた。
「君がジン王女に殴られるのは分かっていたよ」
ライアンが、「え」と声をあげると、グラックスは手を振って笑った。
「冗談だよ。さっき、メイベルさんに聞いたんだ。昨日、ライアンがイゲルに怪我をさせたと、ジン王女が怒鳴りこんできたらしいじゃないか」
俯いたライアンに、「何があったんだい」とグラックスが訊いた。
イゲルがライアンの拝領小刀を取って逃げ回るのを追いかけているうちに、イゲルが転んでその上に倒れこんでしまったのだ、と話すと、グラックスは髭を撫でながら立ち上がった。
「そんなことだろうとは思ってはいたけど…」
窓辺に寄ったグラックスは、一つ大きなため息をついた。
「イゲルはゴダール島で一番大きな網元の家の次男でね。父親は数年前に病気で倒れてから右半身が不自由になってしまい、今はイゲルとは年の離れた腹違いの兄貴が実質的に家を継いでいるんだが、この兄貴が結構厳しい人らしくてね。イゲルはその兄貴に、しょっちゅう怒鳴られたり、ぶたれたりしているらしい。父親はもともと寡黙な人で、後妻の母親が訴えても取り合ってくれず、どうやらイゲルはそんな鬱憤をほかで晴らしているみたいなんだ」
「ほかで…」
「ああ。少しでも気に入らないことがあると誰彼構わず喧嘩を吹っ掛けたり、他人の物やお店の商品を勝手に盗んだり、とか。本人はちょっとした悪戯なのかもしれないが、港町やヴァンタレーの町も小さな地域だからね。そんな話がすぐに伝わって、それを知った兄貴がまたイゲルを怒る。とまあ…、素直で良い子の時もあるけど、ちょっと素行の悪い子ではあるんだ」
ライアンは俯いて口を閉じていたまま、じっと聞いていた。




