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BOUNDARY ~境界線~  作者: 八木 康
ゴダール諸島
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生まれ変わり

 アレフォス島の収穫祭で島民がもっとも盛り上がるもののといえば、やはり伝送奉納だろう。

 五人の走者が山の尾根を走り、海を泳ぎ、最後に奥の院までの三千八百段の石段を駆けあがる過酷なレースである伝送奉納は、神事ではあるが、どのチームが勝つかを予想する、賭けの対象になっていた。

 胴元であるバーラの商業組合はコースの中にいくつかの通過地点を設けて人を置き、そこでの順位を逐一町の広場にある掲示板に書き込んでいくので、賭けに興じる大人たちは通過地点での順位に一喜一憂し、酒も入って大盛り上がりになる。走者を出している集落の人や出場経験のある人、純粋にこの競技を楽しみにしている人も、順位の発表に歓声やため息を漏らしたりしているのだが、実際に走者が走っているところを見ることができるのはバーラの町近くを通る街道を走るときだけなので、特別な思い入れも無いライアンにとっては胸を熱くするような催し物ではなかったのだった。

 伝送奉納にあまり興味はそそられなかったが、ライアンにとっても収穫祭は一年で最も心が浮かれる楽しみな行事である。

 収穫祭を運営するロクトのエグサであるコバックは、祭りの一週間前からは家に戻ってこなくなってしまうので、その間、ソニアのパン屋にいつも預けられることになる。祭りではソニアも屋台を借りて広場に店を出すので、ライアンとミロイは、雑多な麦や豆類を石臼で挽いたり生地をこねたりするのをソニアの一人娘のココにどやされながら、それでも楽しく手伝っていた。

 お祭りの三日間は屋台のパン屋の店番を手伝いながら、ソニアおばさんにお小遣いをもらい、空いた時間に三人でほかの屋台の肉の串焼きや焼き菓子を食べて回ったり、輪投げをしたりしてたっぷりと遊んだ。人だかりができているところを覗いてみると、綺麗な顔立ちの男女三人が五本の棒を落とさずにくるくると投げ回す芸を見せている。夕暮れが近づくと、どこからかプルーナ(横笛)と太鼓の音が聞こえはじめ、広場にいる人たちがあちこちで踊りはじめる。やがて踊りの輪ができ、ライアンのような子どもたちも大人に交じって踊りはじめると、おじさんやおばさんたちが、「おや、ココちゃん」、「あら、コバックのとこの子だね」などと声をかけてくる。

 ライアンは、そんな祭りの雰囲気が好きだった。

 そう言えば。

 いつかは忘れたけど、ココが、少し大きな女の子と大喧嘩したことがあったな。

 二人は髪の毛を引っ張りあい、顔を引っかきあい、互いに罵声を浴びせながら揉みあいつづけていた。仲裁しようとしたライアンは、あっという間に二人から顔を引っかかれた。

 相手の子は…、セデラック学院にいたような気がするけど、誰だったかな…。

 そもそも、あれは何が原因で、あんな大喧嘩になったんだっけ…。

 けんかの原因をあれこれ考えて、なかなか思い出せずにいるうちに、うとうとと眠ってしまったらしい。目を開けると、差し込む夕陽で部屋が橙色に染まっていた。

 ぐう、と腹が鳴る。

 夕食にはまだ間があったが、ライアンはゆるゆると立ち上がると、部屋を出て食堂に向かっていった。

 食堂に行くと、厨房に近いテーブルにチノンばあちゃんが一人で小さな焼き菓子を頬張っていた。歯が丈夫なのだろう。ばりばり、と口の中で焼き菓子が大きな音を立てている。

「まだ夕食には早いよ」

 ライアンに気づいたチノンばあちゃんは、ぶっきらぼうにそう言うと、もう一つ焼き菓子を口に入れた。

 はじめてチノンばあちゃんに会ったとき、フィスコという行方不明になった息子と間違えて抱きつかれたが、それからなぜかばあちゃんはずっと不機嫌な態度だ。ライアンが嫌われているのか、それとも誰にでも同じような態度をとるのか、あるいはたまたま最近は機嫌が悪いだけなのか、さっぱり分からなかったが、いまはただ、なんとなく誰かの傍に居たかった。

 チノンばあちゃんの隣の椅子を引いて座ったライアンの顔を、チノンばあちゃんはしばらく見つめた後、焼き菓子の盛られた皿を取ってライアンの前に置いた。

「いいんですか」

 チノンばあちゃんは何も言わずに顎をしゃくった。『食え』、ということだろう。

 焼き菓子を口に入れるとミルクの風味が広がり、練りこまれていた果物の酸味が後から染みだしてくる。「おいしい」と、ライアンは小さく口に出していた。ソニアおばさんが祭りの屋台に出していたパンと似た味がした。

 ライアンが一口ずつ噛みしめるように焼き菓子を食べるのを見守りながら、チノンばあちゃんは、「はぁあ」と息を吐きだした。

「毎日、人は死んでいくんだ」

 ライアンは、「え」と声を出し、チノンばあちゃんの顔を見た。

「そんなに人が亡くなっているんですか」

「違うわい」

「でも毎日死んでるって…」

 陽が沈み、暗さが増した食堂を見渡して、チノンばあちゃんは目を細めた。

「人は夜になって眠ると死んじまうんだ。そして次の朝起きたら、少し違う自分になって生まれ変わる。毎日まいにち、その繰り返しだ」

「毎日…」

 チノンばあちゃんは、「そう」と言うと、ふふっ、と微笑んだ。

「フィスコも小さい頃は、そりゃあ可愛いもんだった。母ちゃん、母ちゃん、って言って足にまとわりついて、おんぶしてくれってせがんでな。それが、大きくなるにつれて無口になって、何を考えているか、ようわからんようになって、挙句の果てに嵐の夜に出ていったまま、帰ってこないままだ。だけど、それもしょうがねぇ。人は毎日死ぬんだからな。小さい頃のフィスコも、大きくなったフィスコも、嵐の夜に出ていったフィスコも、みんな死んじまって戻ってくることはねぇんだから」

 チノンばあちゃんはライアンを見ると、鋭い目つきになった。

「呆けたババアが、何言ってるんだと思ってるんだろ」

 ライアンは無言で首を振った。チノンばあちゃんは、「ふん」と口を尖らせる。

「子どもの頃は、明日になればちょっと大きくなった自分に生まれ変わる。あたしみたいな年寄りは、昨日よりもどこかがちっと悪くなった自分に生まれ変わる。あんたは若いから、明日になれば何かしら成長した自分に生まれ変わっとる。昨日の自分を振り返って、あれこれ悩んだり、悲しんだりしてもしょうがねぇ。死んじまってるんだからな」

 呆気にとられているような顔をしているライアンをちらっと見て、チノンばあちゃんは立ち上がった。

「夕飯ができるまで、それでも食っときな」

 そう言い捨てると、チノンばあちゃんは、「灯りを点けなきゃな」と言いながら厨房に消えていった。

 食べかけの焼き菓子を手にしたまま、ライアンはじっと動けずにいた。

 今日のジン王女とのやり取りを聞いたのか、それともアレフォス島での惨事を憐れんでくれたのか。いずれにしても、元気のない自分を励まそうとして、チノンばあちゃんは声をかけてくれたように思えた。不愛想に見えるチノンばあちゃんの思わぬ優しさに触れたような気がして、ライアンは手に持った焼き菓子を口に入れた。

『人は眠ると死んで、明日になると昨日の自分と少し変わって生まれ変わる。毎日、毎日、それを繰り返している』

 チノンばあちゃんの言葉が頭のなかをぐるぐると回り、噛みしめて飲みこんだ焼き菓子と一緒に体の奥の方にゆっくりと染みこんでいく気がした。


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