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BOUNDARY ~境界線~  作者: 八木 康
ゴダール諸島
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イゲルとマイトラ

 ロクト修学院でスラック組を落第した(周りの者は皆そう思っている)後にライアンが配属されたのは、スラック教官と同じくらい生徒たちに恐れられていた、『闘魂の美獣』こと、ジェシカ教官の組だった。

 青みがかった黒髪をさらりと伸ばし、涼しげな目尻に魅惑的な黒子(ほくろ)が印象的なジェシカ教官は、その美貌に不釣り合いな太い首にごつい腕と腿を備えた、まさに闘魂の美獣と呼ぶに相応(ふさ)しい女性である。

 最初からいた八人に、スラック組から転属した三人を加えたジェシカ組は、基礎体力の向上を徹底的に行っている時期だった。とにかく走るのである。

 修学院では午前中に座学の授業が行われるので、午後は配属された教官の指導の時間となる。

 スラック組が下院から一の院までの往復六千段の石段を昇り降りしていたのに対し、ジェシカ組は修学院の運動場の端から端を往復することを延々と繰り返す。スラックとジェシカの組に配属されるのは、修学院に入るときの組分けで運動能力と体力があると判断された者だとはいえ、昼から日が暮れるまで走りつづけるのはかなり辛い。しかも、ジェシカ組もただ走るだけではなく、端に着いたら腕立て伏せや屈伸を行い、戻りは後ろ向きで走ったり、杭の間をジグザグに走ったり、慣れてくると壁や箱などの障害物を乗り越えることが追加されて難易度が上がっていく。

 ジェシカ教官は愛用の持ち手がついた短い鉄の棒で肩を叩き、口元に笑みを浮かべながら、生徒たちが息も絶えだえに走る様子を見て回る。そして手を抜いていたり、座り込んで休んでいる者がいたりすると、持っている鉄棒を振り回しながら、その美しい顔を鬼の形相に変えて叱咤するのである。

 スラック教官よりも数倍は怖いジェシカ教官のもとで、こんな厳しいしごきには耐えられないと早々に思ったライアンだったが、日が経つにつれて、ジェシカ教官が傍若無人に生徒たちを痛めつけている訳ではないことが分かってきた。

 ジェシカ教官は生徒たちに一律に同じことを強いるのではなく、一人ひとりの力量や体調に合わせて鍛錬の内容を考えていたのである。

 できなかった課題をクリアし、それが当たり前になると次の課題を課される。そうやって次々に課題をこなしていくと、やがて辛さよりも課題を克服できた喜びの方が大きくなっていく。そうやって皆がジェシカ教官の術中にはまってきた頃、体術の鍛錬が始まって更に痛めつけられる日々が来ることになるのだった。


 ジェシカ組に入ったころの鍛錬を思い出しながら、ライアンは走りつづけた。

 もちろん全力ではなく、のんびり走って立ち止まり、その場で屈伸をすると、今度は後ろ向きにゆっくり走って立ち止まり、その場で伸びをして、また走り出す。そんな軽い運動だったが、体が温まり、強張っていた四肢の筋肉がほぐれてくると、ライアンは無心になって走りつづけた。

 しばらくすると、どこかで、「兄ちゃん」、と呼ぶ男の子の声がした。

 声のした方を見ると、ライアンが脱いだマントの傍に男の子が二人立っていた。

「これ、兄ちゃんのか」

 少し背の高い方の男の子が、ライアンの拝領小刀を両手で掲げてそう言った。

「ああ。大事なものだから、そこに置いておいて」

 男の子は拝領小刀を上にしたり下にしたり、しげしげと見回していて下に置く気配はない。腰に手をやって、短く溜め息をついたライアンはゆっくりと男の子に近づいて行った。

「ねえ、危ないから下に置きな」

 胸元に拝領小刀を抱えた男の子は、近づいてくるライアンをぐっと睨みつけている。

「なんだよ、ケチ。減るもんじゃないだろ」

「そうだよ、ケチ」

 隣の男の子も口をとがらせてそう言う。

「いいから返しな」

 ライアンが男の子の抱える拝領小刀に手を伸ばすと、男の子は、さっ、としゃがんで駆けだし、しばらく走って振り返った。隣にいた男の子も後を追って駆け寄っていく。

 にんまりと笑う男の子に、むっとしたライアンは、「ああ、もう」と呟きながら、男の子に向かってゆっくり駆けだしていった。

 ライアンの手が届きそうになると、男の子は身を(ひるがえ)して逃げる。逃げる男の子をライアンが追いかける。

 はじめはゆっくり走っていたライアンもだんだん速度を上げて真剣に追いかけるが、後ろに目がついているのかと思うほど、右に左にライアンの手をかわし、突然向きを変えたりして、逃げる男の子はなかなかにすばしっこい。

「もうやめときなよ、イゲル」

 途中まで一緒に走っていた男の子がそう声をかけたが、イゲルと呼ばれた男の子は笑いながら走り去っていく。

 追いかけるライアンにもう少しで背中を掴まれそうになったとき、振り向きながら走っていたイゲルが何かに躓いて勢いよく転んだ。後ろのライアンも急には止まれずに、「うわっ」と声をあげながら、イゲルに覆いかぶさるように倒れこんでしまった。イゲルが抱えていた拝領小刀は、転んだ拍子に手を離れ、二人の少し先に飛んでいった。

「大丈夫か」

 体を起こしてやりながらライアンが訊くと、下を向いたまま、イゲルは「うん」と小さく頷いた。頬が少し擦れて、血が滲んでいる。改めてイゲルをよく見ると、目のくりっとした、可愛らしい子どもだ。

「何やってんのっ」

 厳しい口調の声に振り向くと、ジン王女が顔を真っ赤にして走り寄ってくるのが見えた。

「ジン王女…」

 膝立ちのまま見上げるライアンの頬を、ジン王女は右手を大きく振り上げて平手打ちに張り飛ばした。

 木の棒のように、横に一直線に吹っ飛んでいくライアン。目の前で、小さな星がきらきらと瞬いた。

 イゲルの前でしゃがんだジン王女は、血が一筋流れた顔を見て、「まあ」と声をあげた。

「こんなに怪我して。他は、手は、足は、痛くない」

「う、うん」

 ジン王女は立ち上がると、頬を手で押さえたまま立ち上がりかけていたライアンを睨みつけた。

「こんな小さな子を追いかけまわして怪我をさせて、いったいあなたは何を考えてんの。しかもあなた、病人でしょ。恥を知りなさいよ」

 何か言いかけたイゲルの手を引いて、「行くよ」と言ったジン王女は、「マイトラもいらっしゃい」と仲間の子を呼ぶと、診療所に向かって歩き出した。

 イゲルをかばいながら歩いていく王女たちを見やり、「ちぇっ」と口の中で言ったライアンはのっそりと歩き出し、落ちていた拝領小刀を拾うと、鞘についた草の葉を手で(はら)った。

 もう体を動かす気にもなれず、かといって、どこに行く当てもない。

 王女たちが行った診療所に戻るのは気が引けたが、ほかに行くところも無いライアンは、ジン王女にぶたれた頬を押さえながら、とぼとぼと診療所に戻っていった。

 誰の眼にも触れずに部屋に戻ると、ベッドに横になって毛布を顔まで引き上げた。

 ジン王女にぶたれたところが痛くて火照(ほて)っている。

 いくら王女様だからといって、理由も訊かずにいきなりぶつなんて、ひどいじゃないか。しかも、とんでもなく強くて痛かった。顔が飛んでいってしまったかと思った。王女様になると、加減も分からなくなるのか。

 それにあのイゲルとかいうガキ。

 人が大事にしている物を()って逃げるなんて、ゴダールの子どもは、人のものを盗んじゃいけないって教わらないのか。

 やっぱりゴダールなんかに来るんじゃなかった。アレフォス島に帰りたい。

 本当なら今頃、アレフォス島では収穫祭が行われている時期だ。だけど、あんな大変なことがあったばかりだ。今年は恐らく中止になっているだろう。

 ミロイは収穫祭の中でも伝送奉納が一番好きだったが、自分はそれほど興味が湧かなかったな、と思うと、祭りの光景が目に浮かんできた。


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