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BOUNDARY ~境界線~  作者: 八木 康
ゴダール諸島
62/75

チノンばあちゃん

「何をぶつぶつ言ってるの」

 驚いて振り向くと、メイベルが逞しい腕を組んで後ろに立っていた。

「早く起きたわね。環境が変わってよく眠れなかったかしら」

「いえ。ぐっすり眠れました」

 メイベルの張りのある手が、ライアンの額や首筋を触った。暖かい手が心地よく、力が抜けるような安心感がある。

「そうね。熱もないし、顔色もいいわね。薬が効いたんでしょう」

 窓の外を見て、「いい天気ねぇ」と言って、メイベルは目を細めた。

「元気そうだから、朝食は食堂でいいわね。準備ができたら声をかけるわね」

「メイベルさん。グラックス先生はどこにいますか」

「先生は朝早くにアイザック様と出かけたきり、まだ帰ってないのよ。しばらく留守にするかもしれないって言っていたわ」

「そうですか」

「あ。あなたの予定については、グラックス先生から言伝(ことづて)されているわよ」

「予定、ですか」

「ええ。とりあえず、三日間は安静にすること。ただし、体調が良さそうだと私が判断すれば、診療所の周りを散歩してよい、とのことでした」

「安静、散歩…、か…」

「まあ、そんなにがっかりしなさんな。しっかりご飯を食べて、薬を飲んで、具合が良ければすぐに外に出られるわよ」

 メイベルはライアンの頭をぐりぐりと撫でて部屋を出ていった。


 部屋の洗面台で顔を洗い、ベッドに大の字に寝転がってしばらくすると、肩を叩かれた。

「起きて、用意できたわよ」

 目を開けると、目の前にメイベルの大きな顔があった。いつの間にか、また少し眠ってしまっていたようだ。

 メイベルに案内された一階の奥の食堂は、十人が楽に座れる大きなテーブルが中央に置かれ、広々とした草地が窓の外に広がる明るい部屋だった。

 奥は厨房になっているらしく、白髪を両側で束ね、少し背中が丸くなった老婆が、料理の盛られた器を運んできた。

「チノンばあちゃん」

 老婆をメイベルがそう紹介した。

「チノンばあちゃんは、昨日会えなかったから紹介するわね。この子はライアン。しばらくここにいるから、美味しい料理を食べさせてあげてね」

 器を置いて顔を上げ、ライアンを見たチノンばあちゃんの瞳がみるみる大きくなっていく。

「フィスコ」

 そう言うと、チノンばあちゃんはライアンに飛びかかるように抱きつき、目を潤ませながらライアンの顔を両手で包み込んだ。

「違う違う。チノンばあちゃん、この子はねえ、ライアン。フィスコじゃないのよ」

 メイベルが声をかけるが、聞こえていないのか、チノンばあちゃんは、「ああ、ああ」と声にならない息を吐きつづけている。

「心配してたんだよぉ、フィスコ。ああ、よかった。てっきり死んじまったんだとばかり思ってた。よぉく、無事に帰ってきたなぁ」

 目をぱちくりさせているライアンに目配せして、メイベルはライアンに貼りついているチノンばあちゃんを引きはがした。

「さぁ、せっかく作ってくれた料理が覚めちゃうわよ。チノンばあちゃん、お茶を()れてきてくれない」

「うんうん、そうだな。長い間、満足に飯も食ってないだろ。フィスコの好きなボウロとニャームを入れたスープだからな。たんとお食べ」

 チノンばあちゃんはそう言うと、何かぶつぶつ言いながら、厨房に入っていった。

「びっくりさせてごめんね。フィスコはチノンばあちゃんの一人息子だったんだけど、もう何十年も前に、ふいに居なくなって、今も戻って来ないままなの」

 ライアンの脳裏に、行方が分からなくなったフィスコという人と、漁に出たまま帰ってきていないコバックのお父さん、ライアンにはお爺ちゃんに当たる人の話が重なった。

 海に囲まれたアレフォス島もゴダール島も、漁や交易で船に乗ることを生業(なりわい)とする人が多い。船で大海原に漕ぎだす船乗りたちは、時化(しけ)に遭って命を落とす危険と常に隣り合わせているのだった。

「船で時化に遭ったんですか」

「いや、フィスコは漁師じゃなくて、ガボアの果樹園で働いていたの。チノンばあちゃんと二人暮らしだったんだけど、朝起きたらフィスコがいなくなってたんだって。その夜は雨が激しく降っていたから、果樹園の水路の様子を見に行って、誤って落ちちゃったんじゃないかとか、ピールに襲われたんじゃないかとか、いろんな話があって、手分けしてみんなで何日も探したけど結局見つからなかったのよね」

「ピールって何ですか」

「あ、そうよね、知らないわよね。山に棲んでる恐ろしい動物よ」

 そう言って、メイベルは爪を立て、歯を()いてみせた。

「ピールは山奥に暮らしているから果樹園までは降りてこないし、滅多に人も襲わないはずなんだけど、ライアンも山に行くときは気を付けたほうがいいわよ」

「そんな怖い生き物がいるんですね」

「あら、アレフォス島には居ないの」

「ええ。肉食の大きな生き物は、人間くらいですね」

「あれまあ、島によって随分違うのね」

 ライアンを椅子に座らせて、「へえ、そうなのねぇ」と言いながら、メイベルは厨房の方に目をやった。

「チノンばあちゃん、最近は()けることが多くなってね。知らない人に会うと、今みたいにフィスコと見間違えちゃうことがあるのよ。でも、不思議と料理の腕は変わらないのよね。さ、美味しいから、食べてみて」

 促されて、ライアンは目の前のスープを一口啜ってみた。あっさりとした塩味のスープに魚介のコクが溶け込んで、ほのかな酸味も口の中に広がる。

 スープの中に入っている具材は、魚介をすり潰して練ったものに衣をつけて揚げたニャームというもの、黒い筋が入った白くて丸いのは、小麦粉を練ったものに海藻を混ぜたボウロという食材で、細く伸ばして麺料理としても良く食べられているものだ、とメイベルさんが教えてくれた。

「おいしいです」

「ね。チノンばあちゃんも喜ぶわ」

 メイベルはライアンの肩を叩いて、「食後の薬の準備をしてくるわね」と言って部屋を出ていった。

 入れ替わりにチノンばあちゃんが、お盆にポットとカップを乗せて歩いてきた。

「おばあちゃん。おばあちゃんが作ったスープ、とっても美味しいです」

 お盆をテーブルに置いたチノン婆ちゃんは、怪訝そうな顔を見せながら、「けっ」、と吐き捨てるように呟いた。

「あんた誰だい。あんたにおばあちゃんなんて言われる筋合いはないねぇ。まったく、どいつもこいつも人を年寄り扱いして」

 チノンばあちゃんは(きびす)を返すと、まだ何かぶつぶつ言いながら、厨房の奥に引っ込んでいった。

 呆気にとられた顔のライアンは、しばらく厨房の方を見つめていたが、くすっと笑うと、目の前の料理を口に運んでいった。


 それから三日間、ライアンはチノンばあちゃんが作る美味しい料理を朝夕に食べて薬を飲むと、部屋に(こも)ってベッドに横になっていたのだが、料理に眠り薬でも入っていたのかと思うほど良く寝た。それでも三日目の午後になると、さすがに眠気も無くなってベッドに寝ているのが辛くなってきた。熱も出ていないし、身体も軽く感じられる。

 メイベルに外に出ていいか訊こうと思って一階に降りてみたものの、急患が出たようで、慌ただしく走り抜けたメイベルに声をかけられなかった。

 診察室からは、男の呻くような声と、若い男のくぐもった声が聞こえてくる。若い男の声は、たぶんシャルロという名前の青年だろう。ということは、グラックス先生はまだ帰っておらず、シャルロが代診を務めているのだとライアンは思った。

 すらっと背が高く、整った顔立ちのシャルロは、白目がちの目つきが鋭いうえに口数が少なくて、なんとなく近寄りがたい感じだ。廊下で挨拶をしても、「ああ」と、ぼそっと返すだけで、そのまま視線も合わさずに立ち去ってしまう。

 ライアンはシャルロに声をかけることをあきらめ、少し外に出てみることにした。調子もいいし、診療所の周りを歩くだけならメイベルも許してくれるだろう。

 部屋に戻ったライアンは、腰に拝領小刀を手挟(たばさ)み、マントを羽織って外に出た。

 空の高いところに刷毛で刷いたような細長い雲が並んでいる。ひんやりと乾いた空気が心地いい。

 周りの景色を見ながら歩いていると、短く刈られた草地が広がる広場に出ていた。港からアイザックに背負われながら来たときに見えた、ジン王女とシャルロが子どもたち相手にパラレを教えていた場所だと分かった。

 散歩だけじゃなくて、少し体を動かしてみるか。

 羽織っていたマントを脱いで綺麗に折りたたみ、腰から拝領小刀を抜いて畳んだマントの上に置くと、ライアンはゆっくりと走り出した。



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