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「じゃあ、ミロイはどうなんだ。エグサに選ばれなかったら、何をしたかった」
肩に置かれたミロイの手を払いのけてコバックがそう訊くと、「うーん」とミロイはあごに指を当てながら上を見上げてしばらく考え込んだ。
「えーと、僕はね、セデラック学園の先生になりたかったな」
セデラック学園とは、修学院に上がる前の子どもたちが年齢に関係なく、好きな授業を受けることができる任意の学校のことである。十歳前後から通う子が多いが、早い子だと六歳から通っている子がいたり、中にはもう一度教養を身につけたいと六十を過ぎたおばあさんが教室にいたりして驚くこともあった。親が決めた授業を受講する子がほとんどだが、読み書きに算術、歴史に音楽、運動などの授業があり、毎日通う子もいれば週一回だけ来る子もいる。
昔々、セデラックという商人が趣味のプルーナという横笛を子どもたちに教える教室を作ったのがはじまりで、以来、学園の運営はバーラの町の商業組合が行い、教える教師はロクトが試験をして選考した者が派遣されている。学園はバーラから少し北に行った広い高台にあるので生徒はバーラの町に住む子どもが多かったが、西の森に住む子や東の港町の子もごくまれに通ってきていた。
「うん。確かにミロイは学校の先生に向いているかもしれんな。人にものを教えるっていうのは案外難しいもんだが、ミロイなら自分の知識をかみ砕いて教えるのが上手そうだ。ライアンも随分教えてもらったようだしな」
「ええ、ええ、ミロイ先生がいなければ、どうせ俺は落第してましたよ」
口を曲げるライアンを見て二人は笑った。どちらも否定はしないらしい。
「ライアンはやる気がないだけだよ。その気になれば僕よりずっといい成績が取れるはずだもん」
「お、兄想いの弟はフォローも上手いな」
「フォローじゃないよ。ライアンのポテンシャルに気づいてないなんて、教官失格だよコバック」
「ライアンがやればできる子だってのは知ってるつもりだがな」
「いいよ二人とも。そんなに無理して褒めないで」
「無理してない」
今度はミロイが口を曲げている。
「学校の先生になりたいって、ミロイは何を教える気だよ」
話題の矛先を変えようと、ライアンが訊いた。
「この島の歴史をもっと勉強して、歴史を教えたいかな。ザレのことも、もう少し詳しく調べたいし」
「ザレを、調べて、どうするんだ」
怪訝そうな表情のコバックの前で、ミロイは軽く手を振った。
「調べるって言ったって、そんなたいそうなことじゃないよ。ただ、アレフォス島を守ってくれる存在がザレだと教わったし、僕もそう思うけど、千年の島の歴史のなかでは災害や病気、作物の不作だとか、島にとって不利益なこともいっぱい起こっているわけで…」
ミロイの言葉の最後は聞き取れないほど小さくなった。
災害と聞いて、皆が十年前のライアンとミロイの両親が巻き込まれたアドリラ川の氾濫を思い浮かべ、沈鬱な空気が食卓を満たした。コバックの家に二人が住むようになってから、災害や氾濫といった言葉はなんとなく禁忌となって誰も口にしなくなっていた。十年が経ち、五歳の頃の記憶は霞がかかったように遠くにあり、親代わりのコバックとの関わりの方が濃密で揺るぎないものになっているのだが、それでも両親を、コバックにとっては姉夫婦を奪っていったものを思い起こせば、心の奥に仕舞い込んだ傷でもうずいてしまうのだった。
重くなった空気を払いのけるように、コバックが笑いながらミロイの頭をぐりぐりと撫でた。
「ザレの真の姿は何なのか、俺も興味があるな。分かったら一番に教えてくれ、ミロイ先生」
コバックはライアンに向き直り、「次」と言ってリル酒をぐびりと呑んだ。
「ライアンはどうだ。何がしたい」
「えー、俺はいいよ」
「そんなこと言わずに早く言え。こんな機会、滅多にないぞ」
そう言われてみれば修学院の二年間は二人とも寮生活だったので、食卓を囲んでゆっくりと話をするのはずいぶん久しぶりだなとライアンは思った。
「俺はそうだな、牧場に住み込みで働かせてもらって、トンフ(牛に似た動物)の世話でもしようかな」
コバックの目が細くなった。
「お前、えらく簡単に言うけど、生き物の世話ってのは大変だぞ。トンフ小屋の掃除に餌やり、放牧、乳しぼり、朝から晩まで四六時中ずっと休みなしだ」
「いいよ、そんなの。何考えてるか分からない人間の相手をする方が、よっぽど面倒くさいや」
「確かにライアンは面倒くさがり屋だけど、人のためなら率先して一生懸命になる子だってことぐらい知ってるぞ」
「なんだよそれ。俺は自分のことしか考えない、いい加減な奴だよ」
「そんなことないさ。重そうな荷物を持ったおばあさんの荷物を代わりに持って家まで連れて行ってあげたり、そうそう、いつもぽつんと一人でいたクロウにいつも声をかけていたのはライアンだしな」
「クロウは迷惑そうだったよ」
「そうかな、俺には嬉しそうに見えたけどな」
コバックは身を乗り出して、「そう言えばライアンがまだ小さい頃」と笑いながら言った。
「バーラから帰る途中でライアンがいなくなって慌てて探したら、アドリラ川の川岸で同じ年くらいの女の子としゃがんだまま一緒になって泣いてるのを見つけたんだ。どうしたんだって聞いたら、女の子は片方の靴を履いてなくて、たぶんふざけて靴を飛ばしていたら河原の草むらか、川の中に落ちちゃったんだろうな。ライアンも探してあげたけど見つからなくて、どうしていいか分からないから一緒に泣いてあげてたんだよ」
「なんだよその話。結局たいして役に立たないってことじゃん」
「そうじゃないと俺は思うぞ。誰かが困っていたら寄り添ってあげる。考えるよりも先にそういう行動をするやつなんだよ、ライアンは」
ライアンは寄り目になって、前髪を指で弄びながら、「まあ、誉め言葉としてもらっとくよ」と言った。
「それにしても、二人とも大きくなったな」
コバックは二人を見比べるようにしながら何度も頷いた。
「しかも二人ともザレに選ばれてエグサになるなんてな、ちょっと信じがたいよ」
「あ、それはミロイは当然としても、俺は予想外だったなってことですよね」
「ライアン、お前、今日はずいぶん拗ねるじゃないか」
「拗ねてないよ。自分でも本当にそう思うんだ。どうしてザレは俺を選んだのかなって。どういう基準で、ザレはスダジイを通して光る人と光らない人を決めているんだろう」
「それは誰もが思っていることだよね。僕もスダジイの幹が光ったときは、選ばれたというより、どうして僕で光るんだろうって疑問の方が強かったもん」
ミロイがそう言うと、コバックは手に持ったグラスの底に残ったリル酒をぐいっと呑み干した。
「それは俺にもわからん。わからんが、俺が思うに…、ザレが選んでエグサになった人間は、みんな良いやつだ」
ライアンとミロイが椅子から転げ落ちそうになりながら、「なんだよそれ」と同時に言った。二人が座り直すのを待って、「まあ聞け」とコバックが言った。
「いいか。ザレが選ぶのが良いやつだということは、裏を返せばエグサになれないのは悪いやつだということになる。もちろん、選ばれなかった人が全員悪いやつだということではないが、島の人間だって良いやつばかりじゃない。物を盗む者、人を騙して金を巻きあげる者、滅多にないが人を殺す者だっている。ロクトはそういう悪いやつを取り締まる治安維持の役割も担っているから、配属によっては行政庁で法を犯す者を捕まえて裁くような立場になるかもしれん。つまり、ザレに選ばれてエグサになるのは、邪な心がない清廉潔白な人で、とっても良いやつなんだ、と俺は思う」
ライアンとミロイは目を合わせ、「うーん」と唸った。
何か違うような気もするが、正面切って反論する理由も見当たらない。まあ、コバックの言うことにも一理あるのかな、と思いつつ、自分が清廉潔白な人間か、とライアンは自問自答していた。
鏡に映る自分の姿を覗いてみれば、そこにいるのはきっといい加減な面倒くさがり屋の人間が映っているはずで、清廉潔白というにはほど遠いように思えるのだった。