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BOUNDARY ~境界線~  作者: 八木 康
ゴダール諸島
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アグーの涙

 メイベルがお茶を淹れたポットとカップを三つ運んできた。

 診察中だと察して静かに脇の机にお茶のセットを置くと、メイベルはアイザックに微笑んだだけで黙って部屋を出ていった。

 アイザックがお茶を淹れて一口啜ると、「ん、これは…」と呟きながら口に含んだ。

「蜜入りのパグナーだよ」

 ライアンの首の辺りを押しながら、グラックスが言った。

「さすが病院だ。お茶も薬湯ですか。でも密を入れると結構いけますね」

「だろ」

 ずるずると音を立ててパグナー茶を啜っているアイザックを振りかえることもなく、グラックスはライアンの左手のひらから肘の辺りまで伸びた、クモの巣にも、雪の結晶のようにも見える赤黒い痣を丹念に調べていた。

「熱はなさそうだが、痛みはあるかい」

 手のひらの痣を軽く押しながらグラックスが訊くと、目をこすりながら「えーと」とライアンが答えた。

「押されても痛くはないけど、手から腕全体がずっと重い感じです」

「ふむふむ…。アイザックの話だと、チュベキ島に着く直前に倒れた後、この痣が広がってきているということだったけど、本当かい」

「そうです。最初は手のひらだけだったけど、だんだん広がってきて」

 聴診器を耳から外して首にかけると、グラックスは、「ご苦労だったね、もういいよ、服を着なさい」と言った。

「それで先生、ライアンはどんな感じなんですか」

 ライアンに服を着せてやりながらアイザックが尋ねると、グラックスは少し考えこむように間を置いて、(おもむろ)に顔の左半分を覆う眼帯を取り外した。

 露わになったグラックスの顔を見たライアンとアイザックは、はっと息を呑んだ。

 左眼を中心に、ライアンのそれよりは幾分細い黒い筋が、放射線状に網の目のようにあごの近くまで広がっている。そして、顔の痣と同じくらい目を引くのは瞳の色だった。グラックスの右眼の瞳はジン王女よりは濃い灰色をしているのだが、左の瞳は淵だけを残して、まがい物の眼のように白く濁ってしまっている。

「気味悪がられるから人前では滅多に外さないんだが、びっくりしただろう」

「ええ」

 頷いたアイザックが軽く咳払いをする。ライアンはグラックスの顔を見つめたまま、金縛りにあったように動かなかった。

「ポトから聞いてましたけど、それがあの、アグーによってできたものなんですか」

「正確には、アグーの涙と呼ばれるものだがね」

 グラックスは眼帯を付けなおして立ち上がり、机の上にあるカップにパグナー茶を注ぎながら話しだした。

「アグーの周りに水滴が浮き出て(したた)り落ちる現象があるんだ。その水滴が何百年もかけて、小指の先くらいの大きさに固まったものがアグーの涙だ。知ったように言っているけど、アグーそのものは王家が管理しているから実物を私もこの目で見たわけじゃないがね。千年の歴史の中で、できたアグーの涙は二つ。そのうちの一つをベリー家の先祖が王家から下賜された。癒しの力があるアグーの涙を使って医術を極めるようにと仰せつかったんだ。ベリー家では下賜されたアグーの涙を白銀でできた小さな球体の器に入れ、家宝としてとても大切にしていたんだが、私が、そう、ライアン君より少し小さい頃かな、アグーの涙とはいったいどんなものなのか、どうしても知りたくなってね。祭壇の上に祀られていたアグーの涙が入った白銀のケースをこっそり持ち出して、中身を確かめようとしたんだ」

 グラックスはパグナー茶を淹れたカップの一つをライアンに手渡し、自分もカップを手に取るとひと口啜った。

「だけど白銀の器が予想以上に精巧にできていてね。小さな隙間に先の尖った(きり)を差し込んで、押したり引いたり、上下左右に回したりしてなんとかこじ開けたんだが、器が開いた拍子に中に入っていたアグーの涙が飛び出してきて、私の左眼に当たったんだ。その瞬間、目の前が真っ白になってね。私は気を失い、気がついたのは十日後だった」

 ライアンの隣に腰かけてパグナー茶を飲むと、グラックスは自嘲気味に小さく笑った。

「顔の左側を覆うこの痣は、当時は左眼から両手、腹の辺りまで広がっていて、私は半年間、ベッドから起き上がれなかった」

「大変だったんですね」

 アイザックが珍しく神妙な顔をしている。

「体も大変だったが、まず、私がやった行為自体が大変なことだったからね。父は、壊された白銀の器や私の体の状態からして、息子である私が王家から頂いた家宝にいたずらをして、なおかつ左眼にそのアグーの涙を取りこんでしまったということを理解し、自分と息子ともども死罪となる覚悟をしていたらしい。だがナブー女王は、『その身にアグーの涙を取りこめる者がいるとは女神セリーンのお導きに違いない、息子を大事にしてやれ』と仰ってくださり、私は今こうして君たちと話すことができているという訳さ」

「沈着冷静、品行方正なグラックス先生も、大胆なことをしたもんですねぇ」

「どうしてあんなことをしたのか、もう、よく覚えていないけど、あるだろ、子どもの頃って。何かひとつ気になることがあると、周りが何も見えなくなって突っ走っちゃうことって」

「俺なんて、今もそうですよ。面白そうなことがあると、首を突っ込まずには居られないですもん」

「ああ。言う相手を間違えたよ」

 一拍おいて、グラックスとアイザックは顔を見合わせて笑いあった。

「さて。ライアン君のことだが…」

 グラックスはライアンに向き直ってそう言った。

「正直、アイザックからアレフォス島に風光石ザレと呼ばれる光石があるという話を聞いたときは半信半疑だった。だがライアン君を診させてもらって、少し前から感じていた私の左眼の(うず)きが、君のその左手にあるというザレの結晶によるものだということがはっきりしたよ。スダジイという巨木が育んだザレの力の結晶だから、ザレ本来の力とは、もしかしたら違うのかもしれないが、アグーと同種の力を宿していることは間違いない。だとすれば、ライアン君の今の症状は、入ってきた異物を身体の防衛機能が排除しようと戦っているからだと私は考える。そして、それに対処するには私自身に処方してきたことがきっと役に立つはずだ」

「じゃあ、ライアンは治るんですね」

「治るというよりは、順応すると言った方がいいかもしれないね」

「順応する」

「私の左眼の中にあるアグーの涙と同様、ライアン君の左手にあるザレの結晶も、身体に同化してしまっているものを外科的に切除して取りだすのは不可能だ」

「確かに」

「滋味に富む食べ物を摂って体力をつけ、呼吸を整え、身体中を巡る水の流れを制御する。つまり、投薬に食事療法、それにパラレだよ。私はそれを実践してきた」

「パラレって、ジン王女たちがやっていたやつですか」

 アイザックとグラックスを交互に見ながら問いかけると、アイザックが頷いた。

「ああ、来るときに見たんだね。パラレというのは、ゴダールに古くから伝わる格闘技でね」

「格闘技…」

「パラレは水の流れを意識した身体の活用術で、護身術でもあるんだ」

 不思議そうな顔をしているライアンの顔を見て、グラックスは微笑んだ。

「そもそも人の身体のほとんどは水で満たされている。血液や様々な体液だね。その流れが悪くなると、病気になったり、思わぬ怪我をしたりする。逆に、いい呼吸をして、いい水の流れを作ってやると、健康で強い身体にすることができるんだ。ザレに抵抗して排除しようとしている身体を、ザレに順応するように訓練していけば、力を使うことができるようになるかもしれない」


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