浮き島
ミロイは知る由もなかったが、ルナデアの前線基地である浮き島はゆっくりと動いていた。
浮き島を動かしているのはアルケリオ(亀に似た生き物)という巨大な生き物で、頭からしっぽの先までの長さは人間の大人の優に五倍はあり、前びれだけでも小舟ほどの大きさがある。
アルケリオは海藻や大型の魚やクラゲなどを食べる雑食性で、ルナデアに自生するゴーラの実も大好物である。
ルナデアでは太古から、浜に産卵された卵から孵ったアルケリオの子どもにゴーラの実の果汁を与えて育て、人に懐き、従順で賢いものを選んで洋上の乗り物として飼いならしてきた。
アルケリオの甲羅の先端に立つ御者は、頭の先端に突き出た角に結われた手綱を操って海上を自在に航行することができる。高く盛り上がった柔らかい甲羅にある突起に掴まれば、ゆうに五人の人をその背に乗せることも可能だ。
アルケリオの泳ぐ力はとても強く、ルナデアの浮き島は三頭のアルケリオの甲羅の突起と島の頂点にある杭とを綱で結び、アルケリオが泳いで引っ張ることで進んでいるのだった。
ミロイが浮き島に連れてこられた日から三日目の昼過ぎ、浮き島は海の上にぽつりと浮かぶ小さな島に接岸した。
接岸した場所からは切り立った岩の壁が続いているのでかなり大きな島のような印象を受けるが、反対側は刀ですっぱりと切られたように大地が削られていて、そこから緩やかに傾斜した平地が波打ち際まで続く変わった形をした島である。
小島に接岸してから間もなく、ミロイが監禁されている部屋にクレスが現れた。後ろには、いつも食事を運んでくる痩せた女が黙ってついてきている。
にこやかに笑いながら近づいてくるクレスの瞳は黄色と紅色の光が渦巻き、目の下の白い流線形の模様があの夜と同じ妖しい気配を強調させている。
ミロイは身を固くして視線を逸らした。
落ち着け、落ち着け、と思っても、勝手に心臓の鼓動が早くなる。
「久しぶりだな、ミロイ。この島の居心地はどうだ」
クレスはそっとミロイの肩に手をやって囁きかける。
「ふふ。そんなに固くならなくてもよいのだ。お前は我々の大事な客人だ」
そう笑って振り返ったクレスが後ろに立っていた女に目配せすると、女はミロイの後ろに回って腕をとり、羽交い絞めにしてミロイが身動きできないようにした。
いつもミロイの給仕をしているその女は、華奢な体つきに見えるが抑える手の力は意外なほどに強い。
ミロイは歯を食いしばってクレスを見た。
抵抗しようともがくが、動けば動くほどに女の絞める力が強くなっていく。ミロイの額から一粒の汗がすっと流れ落ちた。
「浮き島の生活も飽きてきた頃だろうと思って、お前に贈り物を持ってきたのだ」
クレスは腰に巻いた袋から小瓶を取り出すと、ふたを開けて中に入っていたものをつまんでミロイの目の前にちらつかせた。
よく見ると、それは手のひらほどの長さの細長い生き物だった。白い斑点を散らした茶褐色の体がぬめぬめと濡れて気味悪く光っている。逃げ出そうとしているのか、体をくねらせる姿は蛇のようでもあるが、頭と思われる三角の形をした先端部分に目は無く、丸い口をぱくぱくと閉じたり開いたりしている。
「これはゾウビルという虫でな、見た目は悪いが可愛いやつだ。これを使う者が他にも現れるとは思っていなくて、取り寄せるのに少々時間がかかってしまった」
そう言いながらクレスがミロイのあごを掴む。
「な、何をする気だ」
「心配するな、すぐに済む」
クレスが摘まんでいたゾウビルをミロイの鼻先に近づけた。
「や…めろ…」
必死に顔を背けようとするが、クレスに頬をがっちりと押さえつけられているので声も上手く出せない。
ミロイの鼻先で頭をゆらゆらと振っていたゾウビルは、一瞬動きを止めた後、すっと鼻の中に飛び込んで、あっという間に奥に潜りこんでいった。
目の奥の方で、ちくっ、と痛みが走った瞬間、耳をつんざく甲高い音が頭を駆け巡り、目の前の部屋の景色が波打つように歪みはじめた。
強烈な吐き気が襲ってくると、目の前が白く霞んでいき、ミロイの首ががくっと落ちた。
クレスはミロイの髪を掴み、無理やり顔を上げさせると、「ミロイ」と呼びかけた。
うっすらと目を開けたミロイの瞳の淵は黄色く光り、目の下に白い流線形の模様が浮かび上がっていた。
「どうだ。気分はいいかい」
ミロイがゆっくりと頷くと、半開きになった口から涎が流れ落ちた。
「縄を解いて、首輪も外してやれ」
命じられた女が首輪を外して解いた縄の端を持つと、「よし」とクレスが手を叩いた。
「では外に出るとしよう」
クレスが手を部屋の外に向けると、ミロイは無表情に立ち上がり、少し背を丸めて歩きだす。
虚ろなその目には、何の感情も映してはいなかった。
ミロイたちは浮き島から小舟に乗り、奇怪な形をした島に渡っていた。
外に出てからずっと、ミロイの目には何もかもが眩く、輝いて見えていた。目の前の景色は白く霞み、時折きらきらと光の粒が流れていく。
頭のなかに聞こえてくる声に従っていると、心地よい感覚が駆けめぐり、何もかもが満たされた気分になってくる。
目の前にはしなやかな四肢を持つ給仕の女が黙って岩場を歩いている。
ミロイの後ろには、クレスとともに二人の男がついてきていた。
それが誰かなどということに、ミロイはさして興味は湧かなかった。
クレスに、「歩け」と言われたまま、果てしなく進んでいきたい気持ちだけがミロイの心を支配していた。
高い岩の崖に沿って少し歩くと視界が開け、海に向かってなだらかに下っていく台地が広がっている。緩やかな斜面には、獣の爪が引き裂いたような無数の亀裂が走っていて、なかには飛び越えて渡るのが難しいほど大きく開いた裂け目もあり、所々に低い草が生えているほかは黒褐色の岩場ばかりが続く寒々しい光景だった。
目の前に屏風のように広がる岩の壁は、上陸したときに見えた岩壁の反対側にあたるが、同じような垂直に立ち上がる崖は見上げるほど高い。
その岩壁に沿って少し歩くと、クレスが「この辺でいいだろう」と言って立ち止まり、腰につけた袋からブレスレットを取り出した。
ブレスレットの銀色の輪には記号のような図相がびっしりと彫られており、輪の中央には格子状の蓋がつけられた台座に、明るい緑が強い青緑色に光る石が収められていた。




