嗚咽
翌日の午後には空が晴れ、風にも恵まれて航海は順調に進んだが、少年は夜になると熱が上がり、たまに目が覚めても意識は朦朧としているようだった。それでも口に含ませたパグナーの薬湯をなんとかを飲むことはでき、それ以外はずっと眠りつづける状態をオズマンたちは見守ることしかできなかった。
それから三日後の昼下がり、目を覚ましたライアンがゆっくり目を開けると、ベッドの横に誰かが立って自分を見下ろしていることに気がついた。誰だろう、と薄目にしてしばらく見下ろす人の顔を見つめていると、ぼやけていた輪郭がだんだんはっきりしてきた。
「ライアン」
聞き間違えるはずもない、その声。無事だったのか。いままでどこで何してたんだよ。
「ミロイ」
ライアンは跳ね起きてミロイに抱きついた。
「よかった。生きていてくれて、よかった…」
涙がとめどなく溢れて、最後は言葉にならなかった。
「どうしたんだよ、ライアン。朝ごはんができたから早く起きて来いって、コバックが怒ってるよ」
そう言われてゆっくり周りを見てみると、目の前にミロイのベッドがあって横には箪笥がある。後ろには自分のベッドもある。慣れ親しんだ自分たちの部屋だ。
「今日はバーラに買い出しに行く日だよ。町に行くのが楽しみで、また眠れなかったんじゃないの」
そうか、そういえばコバックが昨日そんなことを言っていたような気がする。
「朝起きられない癖、直さないと修学院に入ってから苦労するよ」
「うるさいなぁ、コバックが二人いるみたいだ」
そうだった。もうすぐ修学院に入らなければならないんだ。寮生活になれば、この家にもそれほど帰ってこられなくなる。そう思いながらぐるりと部屋を見回していると、「ちゃんと起こしたからね」と言って部屋を出ようとしたミロイがゆっくりとこちらを振り返った。
「ねえ。どうして、助けに来てくれなかったの」
「え」
伸ばしたミロイの右腕が人の腕と思えないほど青黒く変色しているのに気づいて、ライアンは凍りついた。
「ミロイ、お前、その腕」
言われたミロイは右腕を持ち上げ、「そうなんだ。なんだか、体全体が痛くて」とライアンに歩み寄ってきた。近寄ってくるミロイは袖口から見える腕だけでなく、首筋も青黒く染まっていた。
「それに、とても熱いんだ」
ふいに鼻をつくような焦げた臭いが漂ったかと思うと、ぱっ、とミロイの服が燃え上がった。気がつけばライアンの周りにも炎が立ち上がり、部屋の壁に勢いよく火が這いあがっていく。
「ライアン、熱いよ、助けてくれよ」
ミロイの体に巻き付く炎を振り払おうと手を伸ばすのだが、どうしても届かない。体が鉛のように重く、足は底なし沼にはまったように身動きが取れない。少しずつミロイとの距離がひろがっていくように感じる。燃え上がる炎に包まれ、目を吊り上げてこちらを睨んでいるミロイは喘ぐ口からも火を吐いていた。
「ライアン。助けてくれるって言ったじゃないか」
離れていくミロイに向かって、「ごめん、ミロイ、ごめん…」とライアンは繰り返し叫んでいた。
その自分の声で、ライアンは目を覚ました。
目を開けて、涙でぼやけた視界に入ってきたのは見知らぬ二人の男の姿だった。
オズマンはベッドの脇に腰かけて、ライアンの顔を両手で優しく包んだ。
「かなりうなされていたようだが、怖い夢でも見たのかね」
ライアンはじっとオズマンの目を見ていたが、ぼんやりとした表情のまま、何も言わなかった。
「わしはオズマン・ブリューワ。アレフォス島の北にあるゴダールから来た商人で、ここはわしの船のなかだ。君の名前は」
少年は視線を外し、ちょっと考えるように眉を寄せて、「…ライアン。ライアン・バトラーです」と小さな声で答えた。
「そうか。ライアンか」
少年が言葉を発して自分の名前を言えたことに安堵して、オズマンは肩の力を抜いた。
「ライアン。君が寝ている間、何度もミロイと叫んでいたが、君の家族かい」
ライアンは視線を船室の天井に向けてしばらく黙っていたが、やがてぽつりと「弟です」と言った。
「そうか、弟か」
なるほど、と言ってオズマンが頷くと、ライアンは身を起こしてベッドから降りようとした。
「島に帰ります」
オズマンの肩に手をかけて立ち上がろうとしたライアンだったが、足に力が入らずにその場に座り込んでしまった。
「三日以上も眠っていたんだ。いきなり動くのは無理だよ」
「ミロイを、助けに、行かないと…」
もう一度立ち上がろうとするライアンをポトと二人でベッドに座らせると、「いいかい、ライアン」とオズマンは言った。
「君の了解を得なかったことはすまないが、ここは海の上、我々はゴダールに向かっている。アレフォス島を離れてしまって、もう三日になる。島に帰ると言ってもすぐには戻れんのだ。聞きたいことが山ほどあるし、君も聞きたいだろうが、まず何か口に入れなければならん。寝ている間はパグナーしか飲んどらんしな」
なにか温かいスープでも作ってきてくれないか、と立っていたポトを促すと、オズマンたちは寝室を出た。
操舵室の後ろにある狭い調理場で乾燥キノコと干した貝柱をトンフのミルクで煮詰めるポトの隣で、オズマンは大きなため息をついた。
「どうしたんです」
「いや、まあ、な。自分の名前を言えて、ほっとしたよ」
「そうですね。とりあえずよかった。…ただ」
「ただ…、なんだ」
「やはり、彼はアレフォス島に帰した方がいいんじゃないでしょうか」
「うーむ。まあ、彼の話を聞いてから判断しよう」
「かなり辛い体験をしたのかもしれませんね」
「そうだな。落ち着いたら話してくれるといいんだが…」
寝室に戻ると、ライアンは窓から見える揺れる海原を黙って見ていた。
小机にポトが作ったスープと乾パンを置いてライアンを座らせ、「さあ、毒は入っとらんから食べてごらん。ポトが作ったスープは旨いぞ」と軽口を言ったオズマンが見守っていると、恐るおそるといった感じでスープを口に入れて飲みこんだライアンは、やはりお腹が空いていたのか、あっという間にお椀いっぱいのスープと乾パンを二つともきれいに平らげ、オズマンとポトは顔を合わせて微笑んだ。
「いまはこれぐらいにしておこう。急にいっぱい食べると胃がびっくりするからな」
ポトが食器を片付けて出ていき、ライアンが少し落ち着いてきたところを見計らって、「さて」とオズマンが言った。
「わしはゴダールの商人と言ったがね。実はもう商売の方は息子に任せて、ポトと一緒にこの世界の島々を回って、そこで暮らす人々の生活や文化とか、いろいろなことを聞いて回っている、まぁ、気楽な身分のおじさんというわけさ。アレフォス島には半年前に来て、その前はルマン島に二年くらい暮らしとった」
ライアンは聞いているのかいないのか、机を見つめながらじっとしたまま動かなかった。構わずにオズマンは続けた。
「あの日、深夜になって地震が続いて、ポトが大地震の前触れだ、津波が来る、なんて言いだして、雨の夜に沖に二人で避難して、朝になって島を見ると、大きな山崩れで島の景色が変わってしまっているのが見えたよ。ロクトの、ちょうど一の院があるあたりだと思う」
ライアンがぴくっと動いたように見えた。
「山崩れに伴う土石流が起こったんだろう。海の上には流されてきた流木や家の残骸、そうそう、トンフも流されていたね。それからしばらくして、ライアン、君が絡まった木の枝の塊りがこの船に引っかかっていたのに気づいた、というわけだ」
戻ってきたポトが椅子を取ってオズマンの横に座った。ライアンは相変わらず俯いたままだ。
「君がどうして海の上に、しかも木の枝にくるまれて流されていたのか、記憶はあるかい」
長い沈黙のあと、ライアンは「いいえ」と小さく答えた。膝の上で握りしめた拳が震えている。奥歯を噛みしめたのか、ライアンの口元で、がりっ、という音がした。
「どうだい。あの夜、君に何があったのか、覚えていることを話してくれんかね」
「俺は…」
顔を上げてオズマンを見たライアンは、ゆっくりと目を伏せて頭を抱え、「俺は…誰も助けられなかった…」と言って嗚咽をあげた。
オズマンとポトが顔を見合わせると、ポトが静かに首を振った。
「目覚めたばかりで話をするのは辛いだろう。もう少し休みなさい」
そう言ってオズマンはライアンの肩に手をかけ、再びベッドに寝かせて毛布を掛けた。
オズマンとポトが部屋を出ていって独りになり、堰が切れたように咽び泣いていたライアンは、いつの間にか引きずり込まれるように深い眠りに落ちていった。




