神話 ボッサム退治
ゴダール諸島に古くから伝わる神話の一つを紹介しよう。
昔々のこと、巨大なボッサム(クジラに似た大型の海洋生物)がゴダール島のすぐ目の前の海に現れた。
成長すると漁で使う船の三倍ほどの大きさになるボッサムは海で最大の生き物なのだが、海上に現れたボッサムは優にその五倍の大きさはあり、背中には山のような背びれが三つ連なっていて、小さな島が突如として海に現れたと見間違うほどだった。
驚きと物珍しさとで浜辺に集まった人たちに向かってボッサムの王は咆哮した。
「我は海の王、バルバロ。卑しき人間どもよ、この海は我のものなり。これより先も海に住む者たちを己の糧とするならば、我に贄として毎年十人の人間を差し出せ」
人語を話すボッサムの王はそう言うと、胸びれを高く上げて海面めがけて一気に叩きつけた。
跳ね上がった海面は高波となって浜辺へ押し寄せていく。集まっていた人たちは叫び声をあげながら我先にと高台へ逃げたが、遅れた数人が波に呑まれて沖へと連れ去られていった。皆が恐怖で言葉を失うなか、一人の女性が前に進み出た。
「海の王にしてボッサムの王、バルバロよ。私はゴダールの島々を統べる王、ワナロア・サンヤットである。確かに我らは生きるため、この広大な海に生きるものを獲り、糧としていただいている。しかしそれは、生きるために小魚やエビなどを食しているボッサムも同じはず。それを我らにだけ生贄を差し出せとは道理の通らぬ言い分ではないか」
海の上にせり出した島のようなバルバロの体から轟音とともに潮が吹きだされ、塩水の雨が周囲に降り注ぐ。
「我に対する意見は要らぬ。お前たちが住める場所はここにはもう無い。身をもってその罪を知るがよい」
バルバロは尾びれを高々と上げ、勢いよく海面に振り下ろした。
どどーん、という音とともに壁のような高さの波が広がって島に押し寄せ、浜辺に近い建物が次々に流されていった。
それから一週間、バルバロは暴れつづけた。
海は大荒れに荒れて船を出せないので漁はできなくなり、島々には高波が押し寄せて人々は住み家と船を失っていった。生贄を差し出すしかないという島民たちに、それはならぬと言う女王も圧倒的な力の前では成す術もない。疲れ果てた女王は、うたた寝をしている間に海の女神が現れる夢を見た。夢の中で女神はこう言った。
「我が名はセリーン。王宮の奥にある入り江に白銀の槍を投げ入れよ。そうすれば、我がバルバロをおとなしくさせてみせよう」
白銀の槍とは、ワナロアが女王となるときに母から贈られた装飾品である。
ゴダールの王は代々女帝で、代替わりの時に先帝は白銀で造られた宝飾を溶かして造り直し、新しい女王に贈る習わしがあった。先帝は自分の宝飾のブローチをなぜか武具である槍にして娘に贈ったのだった。いつかこれが役に立つ日が来ると言って。
目覚めたワナロアは夢でセリーンが言った言葉は大事なお告げだと確信し、その言葉に従うと決める。母から贈られた大切な白銀の槍を海に投げ入れることに何の躊躇もなかった。
早朝の誰もいない入り江に行き、腰まで海に浸かったところで槍を投げ入れると、しばらくして沖の海の上に大きな女性が立っていることに気がついた。腰まで伸びた波打つ金髪に青い瞳、きらきら光る鱗を繋ぎ合わせて作ったような不思議な服を身に纏ったセリーンは、母に面影がよく似ていた。
「ワナロア。よく決断しました。そなたの望み、叶えてあげましょう」
セリーンは海の上を滑るように沖の方に向かって行った。手には槍先が三又に変形し、太く大きくなった白銀の槍を手にしていた。
ワナロアは入り江の切り立った崖を急いでよじ登り、海全体が見渡せる開けた場所まで走って行くと、バルバロの前で槍を立てて佇むセリーンの姿が見えた。巨大なバルバロの目がしっかりとセリーンの体を捕らえている。
「バルバロ。人間を苦しめるのはもうやめなさい」
セリーンの透き通った声はワナロアの耳にもしっかりと届いた。答える代わりに、バルバロの体から巨木のような潮が吹きだされた。
「もう一度言う。悪さをするのはやめて、自分の棲み処に帰りなさい、バルバロ」
「セリーンよ。いつから人間の味方をするようになった」
「我は海の平和を守りたいだけ。敵も味方もない」
「悪さをしているのは人間の方だ。我らはあやつらよりも、はるか昔からこの海で生きてきた。人間どもは後からやってきて、この海の魚を根こそぎ奪い取ろうとしているのだぞ」
「そんなことはない。お互い共存できるはずだ」
セリーンの背丈と変わらないバルバロの大きな目が怒りに燃えていた。
「話しても無駄だ。まずはお前から喰らってやる」
バルバロの大きな口が開き、周りの海水ごとセリーンの体も吞み込まれるかと思われたそのとき、セリーンが三叉の槍をひと薙ぎすると、槍先の描いた先が一瞬で白い氷に覆われていく。バルバロも口を開けたまま、巨大な氷の島になって動かなくなった。
凍りついたバルバロの体に触れてセリーンは優しく言った。
「バルバロよ。ゴダールの人も海の民だ。争いは何も生まぬ。どうか怒りを解いてくれ。おぬしも海の王というならば、ゴダールの民も守るべき存在ではないか」
しばらくの沈黙のあと、セリーンがバルバロから手を離すと、覆っていた氷が粉々に砕けていった。静かになったバルバロは何か言いたげにセリーンを見つめていたが、潮をひと吹きすると何も言わずに海の底に消えていった。
セリーンはゆっくりワナロアの方に振り返り、ちょっとだけ微笑むと、きらきらと光る光の粒になって空に吸い込まれていった。それからはバルバロが暴れることはなくなり、ボッサムは女神セリーンに従属する神の使いになったという。
セリーンはゴダールの守護神として祀られ、王宮の入り口には大きなセリーンの彫像が立ち、奥の間の正面には三叉の槍を持ち、背びれを掴んでボッサムの背に立つセリーンの姿が描かれた壁画がある。そして守護神となった女神セリーンは、ゴダールの民、特に漁師や船乗りたちから篤く信仰され、ボッサムも神の使いとして敬愛されているのだった。
そしてもう一つ。
古来、ゴダールの船乗りたちの間では、海難に遭った者、特に遭難した子どもを助けると海の女神セリーンの幸運を授かると考えられてきた。大海原で遭難してほかの船に助けられることは非常に稀なことであり、女神セリーンの加護があったからこそ助かることができたわけで、助けた者にもそのお裾分けがあるということなのだろう。




