地鳴り
「このへんでいいんじゃないか」
オズマンが声をかけると、ポトは「はあぁー」と大きく息を吐いて、「一応、側艇を出しておきますか」と訊いた。
側艇とは、船が受ける横波を軽減するためのボートのようなもので、甲板の両舷に設置されているものである。
オズマンが頷くのを見て、ポトが舵輪の下にあるハンドルを回すと、船の両舷から二本のアームに固定された側艇がゆっくりと海面に降りていった。
海に上に浮かんだ側艇は波に翻弄されるように上下に激しく揺れている。船の高さを超えるような津波が横から船を襲ったら、この側艇では何の役にも立たないだろう。もしも海面が盛り上がる大波が見えたら、波に対して直角に船を当てれば転覆は免れるかもしれない。
ポトが前方に目を凝らしてふと気がつくと、いつの間にか雨が止み、窓を開けて外を見ると雲の切れ間から月が顔を出して、うねる波間がはっきりと見えるようになっていた。
窓から顔を出して後ろを振り返ると、アレフォス島の山並みが暗い夜空を背景に青く光っているのが見える。
周囲を見渡すと、灯りを点けた数十艘の船が、遠くで波に揺られていた。
ふと、風と波が作る音の合間に、何か低い音が断続的に聞こえているような気がして、ポトは「何か聞こえませんか」と、オズマンに訊いた。
オズマンは耳をすましてみるが、船に打ちつける波の音がするほかは何も聞こえない。
「外に出てみよう」
合羽を着て二人は甲板に出ると、船尾に回って島の方を見つめた。
雨は降っていなかったが海の上は強い風が吹いていて、巻き上げられた波しぶきが顔に当たると冷たい氷が刺さったような痛みを感じるほどの寒さだった。
寒さを堪えながら耳を澄ますと、切れぎれに、ごおおおっ、という低い地鳴りのような音が、島の方から聞こえる気がする。
「地震でしょうか」
寒さのせいか、不安のせいか、震えながら呟くポトの問いを、オズマンも同じように自分自身に問いかけていた。
地鳴りのような音はまだ続いている。
この地鳴りが地震の揺れによるものだとしたら、いままで経験したこともないくらいに揺れつづけていることになる。
「これは地震ではあるまいよ」
え、という表情で、ポトがオズマンの顔を覗き込んだ。
「おそらく、ここ最近の異常な長雨で、アドリラ川が氾濫したのだろう」
「アドリラ川は十年前の水害を踏まえて堤防をかさ増ししたり、調整池を造ったりと、かなり対策をしているから、心配ないと町の人が言っていましたが」
「人の想定など軽々超えてしまうのが自然というものだよ。もしかしたら、地盤が緩んだ山が崩落して土石流となったのかもしれん。地震ではないが、いずれにしても避難して正解だったことになるな」
「では津波は来ないと」
「ああ。ソルジの予言は外れ、ということだ」
「何かが起こっているということでは当たっているとも言えますよ」
「ポトはえらくソルジの肩を持つんだな」
「そんなことはありませんよ」
そう言って、ポトはぶるっと身震いした。
月が雲に隠れ、辺りにまた濃い闇が落ちてくると、島影どころか少し先の波の形も見えなくなってしまった。
「しばらく、この辺りで様子を見た方がよさそうですね。中でお茶でも入れましょう。外は寒すぎる」
「おお、一息つくとしよう」
揺れる船の中で、ポトが器用に熱いバフ茶のミルク割りを入れてくれ、少しずつ口に含ませながら啜っていると、ようやく人心地がついてきた。
バフ茶とはアレフォス島の寒暖差の大きい山の斜面で栽培される名産のお茶で、少し苦みがあるが柑橘類のような爽やかな風味が特徴である。
オズマンはこのバフ茶を、これもアレフォス島名産のトンフの乳で割ったものを好んで飲んでいる。
バフ茶も、トンフの乳から作る乳製品も、ブリューワ家が扱うアレフォス島との主要な交易品の一つになっているのだった。
二人ともしばらく船の揺れに身を任せながら黙ってバフ茶を啜っていたが、オズマンはあごひげを撫でながら、最近ふと気になりだしたことをポトに訊いてみようと思った。
「ルマン島の火光石、ゴブルのことを覚えているかい」
「あ、覚えています。…と言うか、変ですね」
ポトはあごに指をあてて思案顔になった。
「オズマン様に訊かれて、いま、思い出したような気がします。どうしたんでしょう。ルマン島に行ってゴブルの話を聞き、ゴダール島の水光石アグーのような石がほかの島にもあるという大発見に驚いて、オズマン様と光石について色々と話をしてあちこちで聞きまわったというのに、いままで全く忘れていました」
「そうなのだよ。二年間のルマン島滞在で、多くの町を回り、確かバネロという温泉のある町でゴブルの話を聞いた。アグーのほかにも光石があるという話は、お前の言うとおり驚きだったよ。それからは島の風俗と成り立ちというテーマのほかに、光石についてもあれこれ調査した。まあ、結果は百年ほど前の内戦で、それまで島を統治していたエルドファ一族が滅ぶと同時に行方不明になった、ということまでしか分からなかったがな」
話の途中からポトは何度も首を振って頷いた。
「ええ、ええ、そうでした。そして、次はアレフォス島に行って同じような光石があるかどうか調べてみようと、二人で話し合ったんです」
「大事なのはそこからだよ。ルマン島の旅を終えてテキラニア島に帰り、ルマン島で調べたことを紀行文としてまとめる作業をしたとき、メモにあった『ゴブル』という言葉が、いったい何のことか、さっぱり分からなかった。光石と書いてあったのに、ゴダールのアグーのほかに光石などあるはずがないと思い込んでいたし、ゴブルのことに興味もなくなっていた。ポトに尋ねても、やはりゴブルのことを思い出せなかったよな」
「はい。そうでした」
「ゴブルのことは、結局何も書かず、そのままにして紀行文を書き終え、半年前にアレフォス島に来て島の人の話を聞いているうちに、アレフォス島には風光石ザレという石があり、島を治めるロクトという寺院の奥の院で、スダジイと呼ばれる巨大な木に守られているという話を聞いて、我々は驚いた。アグーのほかにも光石があったのか、とね。ルマン島でも同じようなことがあったのに、それを全く覚えていなかったんだ」
「言われてみれば、その通りです」
「考えてみれば不思議な話だ。我々が知るこの世界にある五つの島は、ほぼ丸い円の円周上にある。ゴダールから南東に船でひと月ほどのところにアレフォス島があり、アレフォス島から南西に船で三週間も行けばルマン島がある。マキシマ島とダグダイズ島は少し離れてルマン島から北西に一月半、ゴダールからは二月のところにある。マキシマ島とダグダイズ島はかなり近い距離にあるらしいが、わしもこの二つに島には行ったことがないからわからない。ゴダール、アレフォス島とルマン島、三つの島は近いわけではないがそれほど遠い存在でもない。それぞれの島に光石があり、島民がその光石の存在を認識していれば、ほかの島でも周知の事実になっているはずだ。三つの島は互いに交易していて相互の交流は活発だといえるからね。だが、何千年もの間、他の島の光石のことを知ることは、いや、覚えることはできなかった…」
ポトの目が大きく見開いた。
「まるで、何かの力で記憶が消されているみたいですね」
オズマンは冷めてしまったバフ茶を飲み干すと、両手を顔の前で組んで、上目づかいにポトを見た。
「やはり、お前もそう思うかい。そこで、もう一つの疑問が出てくる」
オズマンは一つ咳払いをした。
「ひと月ほど前から、ふいに『ゴブル』という言葉が頭の隅っこに居座るようになり、そして少しずつ思い出してきたんだ。ルマン島でゴブルを調べていたことを。いま、お前に話したようなことをね」
「記憶を消す力が弱まった、あるいは無くなった、ということでしょうか」
「どうなんだろうな。真相はわからんが、遥か昔からわしらが知らぬ理がこの世にはあり、それが今になって変わりつつある、ということは間違いないだろう」
「遥か昔からあるこの世の理…」
ポトがそう呟いて上を見上げたとき、どん、どん、と、船に何かが続けざまに当たる音がして、何事かと二人は顔を見合わせた。
急いで甲板に出ると、いつの間にか東の水平線が、雲に覆われながらも明るくなっていて、周囲の様子を見てとれるほど夜が明けはじめていた。
音のした左舷の方に駆け寄って下を見ると、荒れ気味の海の上に、流れてきた流木や家屋の残骸と思われる漂流物があちこちに漂っていて、そのうちの大きな流木が船にぶつかってきたのだった。
「オズマン様の言うとおり、アドリラ川の上流で土石流が起こったようですね」




