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BOUNDARY ~境界線~  作者: 八木 康
ゴダール諸島
26/74

闇夜の波頭

 バーラの港に近い宿屋の角部屋で、オズマン・ブリューワは半年かけてアレフォス島の主に西側を歩き回って作った地図を眺めていた。

 キーリャム山脈の中腹から山裾まで広がる森林地帯と、アドリラ川の中流から下流にかけての広々とした田園地帯に住む人々の暮らしや風俗を見聞きしたことをまとめようと思い、もう深夜だというのにペンを手に取って、さて何から書きだそうかと考えながら長いあごひげを左手で(もてあそ)んでいたのだった。

 オズマンのあごひげは胸の辺りまで長く伸びていて、左右二つに束ねてさらにそれぞれを三つ編みに編み込んであり、風呂に入ったときには丁寧に洗って時間をかけて櫛でとかし、また一から編みなおすという結構手間のかかるひげなのだが、この特徴的なスタイルは彼の個人的な趣味ではなく、彼が暮らす島々で太古から続く慣習なのでいい加減に扱うことはできないのである。

 オズマンが生まれ育ったテキラニア島は、アレフォス島の北西に船でひと月ほどの距離にあるゴダール諸島の島の一つである。

 サンヤット家という王家が治めるゴダール諸島は大小さまざまな百以上の島からなっており、テキラニア島は数ある島のうちで一番大きなゴダール島に次ぐ大きさで(と言っても一日あればぐるっと島を一周できるほどの広さだが)、ゴダール島のすぐ東隣に位置しており、先祖代々ブリューワ家のものとして王家から認められている領地だった。

 島では広大な塩田から採れる塩と海産物から生成する医薬品という特産物があり、ブリューワ家はテキラニア産の塩と薬をルマン島やアレフォス島で売り、代わりにルマン島の金属加工製品やアレフォス島の木材や穀物類を輸入する交易を生業としており、オズマンはこのブリューワ家の二十三代目の当主だった。

 五十を過ぎて息子に家督を譲り、自身は隠居の身になると、ポトという従者一人を連れて、かねてからの念願だった各島の探検行をという気ままな旅生活をこの四年ほど続けている。

 ルマン島を二年ほどかけてあちこち巡って調べ上げ、その内容をテキラニア島に帰って一冊の本にまとめると、今度はアレフォス島だと慌ただしく旅立ったのが半年前になる。ルマン島でもポトと歩き回りながら地図を描き、その地の人々の生活や風俗について見たり聞いたりする旅をしたのはアレフォス島と同様だった。

 オズマンは年を取るにつれ、五つの島しかないというこの世界がどのように成り立っているのか、ということを探求したいという衝動が日々強くなるのを感じていた。なぜなのかは分からない。だから本当はもっと早く息子に代替わりして自由な身分になりたかったのだが、この一人きりの惣領息子とは色々あり、結局五十を過ぎるまで決して好きでもない交易という商売を続けざるを得なかったのだった。

 しきりに撫でているひげは頭髪と同じように根元の方がかなり白くなりはじめ、緑がかった黒い毛をそろそろ圧倒しそうな勢いである。

 ポトと宿屋の近くの食堂で摂った夕食でついつい飲みすぎてしまい、部屋に帰ってベットに倒れたまま寝てしまったらしく、夜半に喉の渇きを覚えて目覚めると今度は頭が冴えて眠れなくなってしまった。

 どうせ眠れないのなら、書こうと思っていた紀行文の続きを考えよう、とペンを手にしたのだが、度々起こる小さな地揺れに思考を中断されて、一文字も進まないまま時間だけが過ぎていっていたのだった。

 どこに行ったのか、部屋のベッドにポトの姿はなかった。

 アレフォス島に地震が多いとはあまり聞いたことがないし、これまでの半年の滞在で地震を感じたことはなかった。

 ルマン島はたまに地震があったが、あれは火山があったからだとオズマンは考えている。

 ルマン島とは違い、アレフォス島に火山があるような地形や兆候は見られない。島の東側はまだ調べていないから、もしかしたらそちらには火山活動があるのかもしれないが、この揺れが火山活動と関係がないとしたらいったい何に起因しているのだろう。

 胸に微かによぎる不安を掻き消すように、そういえば、とオズマンはくつくつと笑いだした。

 ポトがまだほんの子どもだった頃、商船に乗せて一緒にルマン島に行ったときのことだ。少し大きな横揺れの地震を生まれて初めて体験したポトは、何が起きたのか分からずにびっくりして、その場から逃げようと椅子から立ち上がった弾みによろけてしまって尻もちをつき、地震が収まった後もしばらく腰が抜けて動けなくなり、さらには小便を漏らしてしまっていたことを思い出したのだった。

 ポトもあの頃は線の細い子だったが、今ではすらりとしていながら引き締まった体格をしたいい男になっている。

 強い風に乗って窓に打ちつける雨は激しい音を立ていて、どこかで雷も鳴っているようだ。

 本当は今頃、このアレフォス島という島を治めているロクトについて調べようと思っていたのだが、ひと月近く続く長雨で町の食べ物屋を巡るほかは宿屋に籠るばかりになってしまい、ここ数日は何をするにも億劫になりはじめていた。

 オズマンが背伸びをしながら大きな欠伸をしていると、ドアの鍵が開いてポトが勢いよく飛び込んできた。

「あ、オズマン様、起きていましたか。ちょうど良かった」

 フードを取り、膝まである合羽からぼたぼたと雫を垂らしながら、ポトが「すぐに出航しましょう」と言った。

「しゅ、え…。ポト、こんな夜中に帰ってくるなり出航しましょうとは、いったいどういうことだい」

 オズマンの問いに「大地震と津波が来るかもしれません」と答えながら、ポトは急いでオズマンのベッドの脇から鞄を取り上げると、散らかっていた服を乱雑に詰めはじめた。

「夜中になっておかしな地震が続いていたんで、ちょっと外に様子を見に行ったんです。そうしたらソルジ船長にちょうど外で会いまして、『この妙な揺れ方は大きな地震の前触れだ。揺れが大きければ津波が来るかもしれねぇ』と言ってまして、ソルジ船長はとりあえず船を沖に出して様子を見るそうです。我々も万が一を考えて避難しましょう」

「こんな悪天候の、月明かりもない夜の海に、しかもソルジの言うことだろ。あの飲んだくれのじいさんの言うことをまともに信じるのかい」

「ソルジ船長は海に関することでいい加減なことは言いませんし、そして船長が酔っぱらっているときに言う予言らしきものは、()()に当たるんですよ。それに船には灯りを点けますし、操舵と漕ぎ手は私が努めますから心配ご無用です」

「それにしたって海は大荒れかもしれんし、そもそもこの地震がそんな大きな地震に繋がるのか…」

 オズマンの言葉を最後まで言わせずに、ポトは「オズマン様も書類や文具なんかを早く鞄に入れてください。とりあえず避難して、何もなかったらそれでいいじゃないですか。はいはい、動いて動いて」とオズマンを急き立ててくるくると動き回っていた。

 ポトのやつ、大きくなっても地震が怖くて怖くてしょうがないと見える。

 自分が老けていくにつれて、最近どちらが主人か従者かよくわからなくなってきた、とオズマンは思いつつ、しぶしぶ荷造りをはじめた。

 激しい雨が降り注ぐなか、目を開けるのも苦労しながらなんとか港に着くと、同じように沖に避難するため船を出そうとする人たちが慌ただしく行き来していて、すでに何艘かは舳先と両舷、船尾にランプを灯しながら、港から沖に向かって船を出していた。

 ソルジ船長の姿は見当たらなかったが、殺気立った人たちを避けながら、オズマンたちもようやく自分の船にたどり着くと荷物を操舵室に放り込み、岸壁に係留したロープを解いて真っ黒な海に向かって船を出していった。

 船体に取り付けてあるランプの灯は朧げにぼんやり光るだけで海面を照らしてくれるはずもなく、ほかの船にぶつからないように気を配りながらとりあえず沖に向かって進んでいく。

 オズマンの所有船であるズミーヤ号は風があれば船尾の帆を使って航行するのだが、無風や嵐の時などは、船の後方に設けられた水車を、操舵室にある足踏み式ペダルを漕いで回すことで船を動かせる仕組みになっている。

 滑車と歯車の組み合わせを使って一人の人間が漕ぐ力で大きな水車を回すことができるこの装置は、十年ほど前にブリューワ家の造船技師が開発したもので、いまではゴダール諸島で航海に使用される船の主流となりつつあり、大型の商船には水車を何台も搭載しているものもある。

 それまでは大きな船になると(かい)を漕ぐ何十人もの漕ぎ手が必要だったが、足踏み式の水車を動力とする船が登場してからは水車一台につき一人の漕ぎ手がいれば船が動かせるので、船員の大幅な削減につながった。

 ズミーヤ号も足踏み式水車を搭載しているので、オズマンとポトの二人しか船員がいない船でも、何カ月もの船旅が可能になっているのである。

 バーラの港は少しだけ突き出た岬が外海の波を打ち消してくれるので湾のなかは波が穏やかだったが、岬を回って外洋に出ると高い波で船が大きく揺れ、操舵室のガラス窓に叩きつける雨はばちばちと音を立てていた。

 水車を回すペダルも重いのか、ポトは顎から汗を滴らせながら、雨で濡れた髪から滴も垂れているので汗かどうかは分からないが、もくもくとペダルを漕ぎつづけた。

 オズマンが長く編み込んだ二本のあごひげを蓄えているのに対して、ポトはひげを生やしていない。なので、顎から滴がそのまま落ちている。

 ゴダールの民ではないポトはひげが薄くて貧相なので伸ばさずに剃ってしまい、さらりとした顔立ちの上の髪は短く刈り込んでいる。

 対照的にオズマンのようなゴダール生まれの男たちは総じて彫が深く、目鼻立ちもくっきりしていて体毛が濃い。毎日ひげを剃るのは面倒だし、かといって伸び放題にしているのはみっともないので、いつしか伸ばしたひげを編むという風習が生まれたらしく、時を経てまとめる本数に決まりができたらしい。

 王家に連なる者は三本以上、王家一門ではないがそれなりの地位や立場にあって王家が認める者は二本、それ以外の者は一本、という具合に。

 もっとも、王家でもなく、偉い立場にあるわけでもない島の男たちは、何本も編み込むより一本だけ編むだけでも億劫がる者が多い。だが生えたままのひげで外に出るのは外見上よろしくないという認識は持っているので、誰もがひげの手入れは念入りにしているのであった。


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