呼びかける声
ライアンは膝に手を当ててゆっくり立ち上がり、クロウと二人で一ノ門櫓を潜って前に進むと、あちこちに矢を受けて人が倒れていることが見てとれた。
リュート導師の言ったとおり、一の院と変わらない惨状がここにも広がっていた。
「ミローイ」
辺りを見回しながら叫ぶライアンの声は、雨の音にかき消されていく。
ふいにクロウが走り出し、十歩ほど行った先の石畳に落ちてずぶ濡れになった服を取り上げた。
クロウに駆け寄って覗きこんで見えたものは、木界櫓の火の明るさに映った赤紫色に幾何学模様が染め抜かれた衣、導師が着用するマントだった。コーエン導師のものに違いない。辺りを見回してもコーエン導師の姿は見えなかった。導師はどこに行ったのだろう。逃げる敵を追いかけて行ってしまったのだろうか。
何気なく視線を落とした先の水たまりを見て、ライアンの瞳が大きく開いていく。
水たまりに浮かんでいたものを拾い上げて目の前にかざすと、ライアンはそれを握りしめ、思わずしゃがみ込んだ。
先が千切れた瑠璃色の組み紐。間違いない。コバックがミロイにお祝いと言ってあげた拝領小刀の縛り紐だ。
コバックが手ずから編んだ、ライアンの緋色の縛り紐とお揃いのものだった。
敵とやりあって切れてしまったのか。ミロイ、どこにいる。コーエン導師と、コバックと、敵を追っているのか。
ライアンは立ち上がり、「ミローイ」と呼びかけながら辺りを探していく。
クロウも同じように声を張り上げた。
水たまりや濡れた石畳が木界櫓から立ち昇る火をはね返し、二人は黄金色に燃え盛る秋枯れの草原を歩いているようだった。
突然、声にならない声を張りあげて、ライアンが駆けだした。
水しぶきをあげて滑り込んでいった先に、倒れたまま動かない人影があった。
「コバーック」
目を見開いたまま冷たくなったコバックの顔を抱き寄せ、胸に抱いたままゆらゆらと上半身を揺り動かして、あーっ、あー、あーっ、とライアンは空から叩きつける雨の雫に向かって吠えつづけた。
どうして、どうしてまた、僕の大切な人を奪っていく。なぜこんな目に遭わなければならない。僕が何をした。コバックが何か悪いことをしたか。
クロウが近寄って肩にそっと手を置くと、ライアンはコバックを抱えたまま体を折り曲げたまま咽び泣いた。
ふいに、「はっ」、と言って顔を上げたライアンは、コバックを静かに寝かせると周りを見渡し、近くに倒れている人のところに駆けていって仰向けにさせると顔を覗き込んだ。
そしてまた辺りを見渡し、別の遺体に駆け寄っては顔を改めはじめた。
そんなライアンをクロウはただ黙ってじっと見守っていた。
雨は容赦なく降りつづけている。
ふと耳を澄ますと、雨の音に交じり、スダジイの方から大勢の人が苦しみ悶えるような声らしきものが二人の耳に微かに聞こえはじめた。
しばらくすると、ばきばきばきっ、と木が裂けて擦れあうような音がいくつも重なり合いながら響いてきた。
なんだろう、と思って二人が顔を見合わせた瞬間、轟音とともにスダジイの根元にあった回廊殿堂が吹き飛ばされて大量の木くずや土埃が舞い上がり、空から大小さまざまな木片が辺りに降り注いだ。ライアンとクロウのいるところにも一抱えもある大きく尖った木の塊りが転がってきて、何が起こったのか分からない二人はゆっくりと立ち上がった。
雨に洗われた土埃の煙が落ち着き、先が見通せるようになって二人が目にしたものは、巨大なスダジイの幹の根元近くから、上に上に向かって伸びる大きな裂け目だった。裂け目は奥の院の櫓よりもはるかに高く、下に行くにしたがって櫓三つ分ほども広がっている。
おそらく亀裂が入ってスダジイの幹が裂け、巨大な木片となって崩れながら回廊殿堂を粉々にしてしまったのだろう。
遠目にはスダジイが口を大きく開けて、中のものを勢いよく吐き出したようにも見える。
大きな裂け目から、さらにいくつもの亀裂が枝葉のように伸びていて、ばきん、ばきん、という音が絶え間なく聞こえつづけていた。
信じられない光景だった。
千年もの間、この地に根を張り、ザレを守り、島を見守ってきた神の樹。その御神木にぽっかりと穴が開き、なおもその穴は広がりつづけ、スダジイ自体が崩れようとしている。
ザレは奪われたのだ。
何が、どうなったら、こんなことが起こるのだろう。
だけど…、もう、そんなことはどうでもいい。
コバックが死んでしまった。ミロイも…、ミロイもきっとどこかで殺されてしまったに違いない。
ついに、独りになってしまったんだ。
ぽっかり空いた心の空洞は、黒い染みのように滲んでは、体の隅々に広がっていく。
雨が弱くなってきたようだ。体に当たる雨粒に勢いがなくなってきた。
受け止めきれない現実に何も考えられなくなったライアンの頭のなかを、不思議な違和感が広がっていく。
なんだろう。何か変な感じだ。
辺りを見回してみると、雨が弱くなっているのはライアンの周りだけで、手を伸ばした先は降りしきる激しい雨が、壁のように立ちふさがり、地面に叩きつける雨音も何も変わっていなかった。少ししか離れていないクロウの顔にも肩にも降り注ぐ雨粒が跳ね返り、飛沫が舞い上がっているのが見える。
ライアンの周りだけ、雨が止みかけている。
いや…、雨が弱くなっているんじゃない。雨粒が落ちるのが遅くなっているんだ。
そう思った瞬間、落ちていた雨粒が空中でふわりと止まり、無数の小さな丸い粒が泡のようにライアンの周囲を埋め尽くした。
顔を横に向けると、空中に浮かんだ雨粒がびしゃびしゃと当たって消えていく。くすぐったいような、痺れるような感覚が全身を駆け巡ると、ライアンの身体がふわっと浮いた。
見下ろした先のクロウは膝をつき、こっちに向かって何かを叫んでいるが、何も聞こえない。
急に何か強い力に体が引っ張られるように感じた途端、ライアンの体は恐ろしい速さで一直線に空中を飛んでいった。
頭を地面につけてこっちを見ているクロウの姿がどんどん小さくなっていく。
流れる景色は見えず、黒い油を撒いたような闇が広がっている。体が九の字に曲がったまま声も出せず、引き寄せる力に成す術もなく身を委ねたのはほんのわずかな時間だったが、ライアンはこの不可解で空虚な暗闇の中に引きずり込まれることをむしろ望んでいる自分に気がついていた。
このまま闇の中に落ちて、何もかも消えてなくなればいい。
虚ろなライアンの目には、もう何も見えてはいなかった。
だから、唐突に動きが止まり、何か柔らかい寝床のようなものの上にすっと体が置かれ、手足の指先まで一斉に血が廻って全身の細胞が脈動するのが分かると、言いようのない苛立ちが、空っぽだった心を引き裂くように騒がしはじめた。
なんで、なんで生きてる。もう、生きててもしょうがないのに。自分だけ生きてたって…。
ライアンは体を起こし、拳を寝床に叩きつけた。めり込んだ腕の先から白い煙が、ぶわっと広がった。
手に掴んだものを引きだし、ゆっくり顔の前に近づけてみる。
指を開いて見た手のひらに掴んでいたものは、白っぽい粉状のものに、大小さまざまな黒く焦げた木片が混ざりあっている灰の塊りだった。
改めて気がつくと、ここには木が焦げた臭いが満ちみちている。
そして、はっとした。
暗闇だと思っていたのに、手にしたものや周りのものがうっすら見えている。
ゆっくり顔を上げて、ライアンは息を吞んだ。
仄かな瑠璃色の光に満たされたライアンが居る場所は、とても広い空間だった。
コバック家の居間の五倍くらいはあるだろうか。上を見あげながらゆっくり頭をまわしていくと、三方を囲む黒い壁のように見えるところに、まるで血脈のように上へ上へと昇っていく、何万本もの光る筋が、白や淡い青色に瞬きながらライアンを取り囲んでいるのだった。
流れる光の音だろうか。さらさらさら、という心地よい音がそこら中から聞こえてきた。
さらに耳を澄ますと、どこか近くから、囁くような声が聞こえてくることに気がついた。
『ライアン。…ライアン』
耳に届くというよりは、頭のなかに直接問いかけてくるようなそれは、しわがれた老爺の声と、温もりのある老婆の声が入り混じったような、不思議な声音をしていた。
『わたしの声が届いているね。』
ためらいがちに小さく頷くと、声の主は小さく笑った。
『やはり、お前はこの力を受け入れることができるんだね』
「…ちから」
めきめき、ばきばきっ、と木が折れる大きな音が、洞窟のような空間に谺した。
『もう気づいているだろうが、お前がいるのはわたしの腹のなか、みなはわたしのことをスダジイと呼んでいるようだがね。ちょうどそこは、ザレがあった場所だ』
スダジイの声を聞いているうちに、ライアンの目から涙が溢れ、とどめようのない悲しみが、砕けてしまった心を容赦なく切り裂いていった。
「いまさら何なんだよ。コバックも、ミロイも死んで、ザレも奪われたんだろ。何にも、誰も、守ってくれなかったじゃないか」
ライアンの声が、巨大な空間の中で反響しながら小さくなっていった。
「ちから…。そんな力があるなら、どうして…、どうして守ってくれなかったんだよ」
ライアンの叫びが、嗚咽が、淡く青白く明滅する空間に吸い込まれていく。
辺り一面を満たす網の目のような光の筋が、上に集まるにつれて輝きを増していくように見えた。
『ザレを抑え込むのに手いっぱいでな…』
「・・・」
『だが、あいつらは火光石ゴブルを持っておった。光石が持つ引きつけあう力に、わたしの力では、太刀打ちできなかった。コーエン、コバック、フリッツ、ルーロー…、大勢の子どもたちが逝ってしまったのは、ほんとうに残念だ』
少し間をおいて、スダジイが優しく、『ライアン』と語りかけると、『ミロイは生きておるよ』と言った。




