一の院へ
ライアンたちの脇を飛ぶように走り抜けて行ったその男は、コバックから一の院に救援を求める伝言を託されたエスキーだった。
奥の院、スダジイの根元の堂宇から走り出したエスキーの足は本当に早かった。
気立てが優しく、温和で、畑での農作業をこつこつとこなすエスキーだが、小柄で身の軽い体躯のせいか子供のころから足が速く、さらには暗がりの石段を二、三段抜きで昇り降りしたり、足場の少ない岩場を全速力で駆けたりと、そんな命の危険と隣り合わせのような状況で体を動かすことに酔いしれるような興奮を覚える一面も持っていた。
なので、灯篭の頼りない光しか届かない薄暗い石段を駆け下りることなど、彼にとっては造作もないことだったのである。
エスキーが無事に走って行くことができたのは、幸運も味方していた。
一ノ門櫓の少し先、奥の院に通じる石段の脇の草むらに、そこを通る人を片っ端から射殺す役目を負った敵が待ち伏せしていた。
この少し前、奥の院から一の院の火事の状況把握に向かったエグサ四人は、ここで待ち伏せしていた敵の手にかかり、石段脇の茂みの奥に打ち捨てられている。
疾風のように走るエスキーの姿は待ち伏せしていた彼らの眼にも映ったのだが、飛び跳ねていく黒い人影を見ても、とても人とは思えず、動きの速い獣か何かが通ったのだ、と勘違いして見過ごしてしまっていたのだった。
そんなことを露ほども知らないエスキーは、幸いにも敵の目をすり抜けることができたのだが、石段を降りる途中で枝葉の間から見えた炎の明るさに、一の院の火災も尋常ではないことに気づいた。
最後の石段を降りて左に緩く曲がった小道を走り、一の院の本堂裏手に出たエスキーは、立ち止まって声を失った。
目の前の本堂は屋根が崩れ落ち、残った柱や板壁から盛んに火の手があがり、火の熱さで手をかざさないと顔が燃えるようだった。崩れた本堂の左手にある寺務所からも、右に目を向ければ宿舎からも、全ての建物がごうごうと火の粉をまき散らしながら炎に舐めつくされ、そしてあちこちに矢を体に受けた人が倒れていた。
一の院も奥の院と状況は変わらなかったのだった。
救援なんて出せる訳がないと呆然としていると、どこかで幾人かの人が話す声が、間隔を開けて聞こえてきた。
声のする方へ恐る恐る近づいて行こうとしたとき、ふいに「エスキー」と声をかけられた。
「無事であったか」と言いながら駆け寄ってきたのは、コーエン導師だった。
エスキーは安堵と不安がごちゃ混ぜになり、涙ながらに奥の院での惨状をコーエンに伝えた。
息せき切って話すエスキーの説明は前後も逆になったりして分かりづらかったが、聞き終わったコーエンは、「ううむ」と唸った。
「奥の院の空が赤く光っておったから、もしやと思うてわしが行くところじゃったが、さては敵の狙いがザレとはな。コバックが早まらずにわしが来るのを待っておればよいが…。よし、エスキーや。お前は宿舎の前にいるリュート導師に、今わしに話したことと同じことを説明しておくれ」
コーエンはそう言うと、後ろを振り返った。
「ここにいる敵は、わしの雷撃拳と、リュート導師の薙輪刀(木製の十字の骨組みを囲む輪に八枚の細い刃が仕込まれたリュート導師考案の武具。投げつけると弧を描いて手元に戻ってくる)でおとなしくなっておるが、なにせ敵の居場所がわからんでの。当てずっぽうに攻撃しただけだから、まだ敵は残っているとみてよかろう。くれぐれも気を付けるんじゃぞ」
「わかりました。コーエン導師もご無事で」
エスキーに優しく微笑んだコーエンはくるっと背を向けると、音もなく走り出した。
コーエンの後ろ姿が見えなくなると、本堂の木組みが燃え落ちたのだろうか、ばきばきんという音がして沢山の火の粉が舞い上がって暗闇に溶けていった。
中の導師様たちの像もすべて灰になってしまうのだろうか。
ぶるっと身震いしたエスキーは、コーエンの指示を思い出し、あたりに気を配って猛然と駆けだした。
舞い落ちる火の粉と倒れて動かなくなった人を避けながら走ると、本堂と宿舎の間に五人の人影が立っているのが見えた。その中で一人だけ背が高いがっちりした体躯の男がリュート導師だとすぐに分かった。
獣のように突進してくる黒いものにリュートたちは一瞬たじろいだが、目の前で立ち止まって顔を上げた男がエスキーだと分かると一斉に取り囲み、「無事だったか」「奥の院は大丈夫か」などと口々に問いかけてきた。
奥の院の惨状を語り、コーエン導師が奥の院に向かったと話すと五人は押し黙り、『どうしましょうか』と言いたげな顔つきで、リュートの顔を見つめる。
そのとき、ずうーん、という腹に響く音とともに空気が揺れ、地面から細かな振動が伝わってきた。
「コーエン導師の雷撃拳か」
リュートの言葉が終わり切らないうち、宿舎だった建物の一部が大きな音とともに崩れ落ち、ばら撒かれた柱や壁の木片があちこちで炎をあげはじめた。
建物の奥の方は二階建ての構造をなんとか保っていたが、燃え上がる炎はのたうち回り、わずかに残った建物に絡みつくようにして暗い空に昇っていく。火の粉が舞い上がるたびに吹きつける熱風で、建物に近づくことさえできなかった。
誰もが宿舎の中で生き残っている者は一人もいないだろうと思わずにいられなかった。そしてあちこちで矢が刺さったまま倒れて動かなくなった人。突然の火事に慌てて外に飛び出してきた人たちは、おそらく訳の分からないまま命を落としてしまったに違いない。
はるか頭上の奥の院の方を見上げたリュートは、「よし」と言うと、ぐるりと皆を見回した。
「俺たちがいた導師や律師の住居は攻撃を免れ、運よく生き残ることができている。しかし、残念ながら、ここには俺たち以外に生き残っている者はいないだろう。敵の目的がザレだと分かった今、奥の院に行き、コーエン導師を援護する」
リュート導師を囲む者たちが「はい」と同時に返事をすると、リュートはエスキーに向き直り、肩にそっと手を置いた。
「エスキーには別のことを頼みたい。ここまで来るだけでも大変だっただろうが…」
「は、はい」
「いま敵は鳴りを潜めているが、まだどこかに潜んでいるかもしれん。だがお前の足があれば、敵の目をかいくぐって下まで行けるはずだ。この下の修学院の寮には、大勢の子供たちがいる。急いでそこまで行って寮長にこれまでのことを話し、子供たちを下院…、いや、できればバーラの行政庁まで退避させてほしい。やってくれるか、エスキー」
「下は…、無事なんでしょうか」
「わからん。修学院や下院の方から火の手が上がっているような気配はないが、無事を祈るしかない。そして下へ行く途中も安全だとは言い切れない」
再び地面が小刻みに揺れ、立て続けに衝撃音を感じて皆が上を見上げる。
俺が奥の院に行っても役には立たないけど、修学院に行って、子供たちを助けることは俺にもできる。
エスキーは両こぶしを強く握りしめた。
「わかりました。行くっす」
「もしも途中で危険を感じ…、ちょ、エスキーっ」
リュートがしゃべりはじめた時にはもう、エスキーは回れ右をして駆け出していた。
「なんちゅうせっかちな奴だ」
半ばあきれながら呟いたリュートは、「よし、行こう」と残った者たちを見回して奥の院に向かって走りだした。
エスキーのそんな使命を知らないライアンとクロウは、突風のようにすり抜けて行った小柄な警護士を、呆気に取られて見送っていた。
走り抜けていく後ろ姿を見てようやく警護士だと気づいたが、夜目が利くクロウは早くから降りてくる人が警護士であると分かっていたに違いない。でなければ迷わず矢を放っていただろう。
ずどん、という音がして、地面がさらに大きく揺れた気がした。
「どうしても行くのか」
見つめるクロウの視線を外して、ライアンは拳を握りしめた。
俊足の警護士が走り抜けていったことでなぜか少し冷静になった頭で考えると、急に怖さが勝ってきた。
クロウが言っていた敵襲という言葉は実感を伴わない、どこか遠くの出来事のような気がしたままだが、とんでもない事態になっていることは疑いようのない事実だ。
エグサになったばかりの自分に、何ができるというのか。悔しいけど、クロウの言うとおりだ。
だけど、何もしないまま、じっとしているのか。
「なら、俺も行く」
ゼンガの弦を調整しながら、クロウは短いため息をついた。
「何があったのか、何が起こっているのかを知らないことは辛いことだ。特に肉親の場合は」
ちらっとライアンを見て、クロウは続ける。
「ただ、これは訓練じゃない。相手の息の根を止める覚悟がないと、死ぬのは自分だ」
「ま、まだ、敵に襲われていると決まった訳じゃないだろ」
ゆっくりとライアンの方に顔を向けたクロウは、「そうだな」と小さく呟いて、「行こう」とライアンの肩を拳で軽く小突いた。ライアンが頷くと、二人は駆けだしていった。
これまで数えきれないほど昇り降りして行き慣れた一の院までの石段。灯篭に優しく照らされた石は、雨に濡れてその光を棘のように反射させていた。
ミロイを助けに行くことは、得体の知れない敵と命のやり取りをすることになるのかもしれない。
そんなことが本当にできるだろうか。
逸る気持ちと怖さで身体が竦み、ライアンは何度も転びそうになった。
石段を上がる間にも一の院から立ち昇る火柱と舞い上がる火の粉が見えていたが、門を潜り、一の院の敷地に入った二人は目の前の光景に言葉を失って立ち尽くした。




