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BOUNDARY ~境界線~  作者: 八木 康
アレフォス島
19/74

言い知れぬ不安

 修学院の寮に戻ったライアンは濡れた服を着替えてベッドに横になり、時折聞こえる雨風の音に耳を澄ませているうちに、目蓋(まぶた)が重くなってうとうととしていた。

 ライアンはずっと悔やんでいることがあった。

 十年前、両親を亡くしたあの日。父親の弁当を届けに行くと言って雨が降りしきる外に出ようとする母を見たとき、なぜか母が遠くに行ってしまうような気がして、足にすがりついて「お母さん、行かないで」と頼んだ。「ちょっと行ってくるだけ、すぐ戻って来るよ」と母が何度諭しても、手足を突っ張って、母を行かせないようにした。

 その後に起きる悲劇を予見していたからぐずったのではなかった。家を揺らす強い風が吹き、常とは違う雨の降り方が不気味で怖かったからでもなかった。

 ただなんとなく、このまま母を行かせてはいけない気がしていたのだ。

 結局、体をくすぐられて手が解けてしまい、母はするりとドアの向こうに行って顔を出し、「心配しないで、すぐ戻って来るね。雨がすごいから外に出ちゃ駄目よ」と言うと、扉の向こうに消えていってしまった。

 あのときもっと強く引き留めておけば、少なくとも母を失わずに済んだという事実が、ずっと心のどこかに引っかかり、もっと何かできたのではないか、という問いかけが、ずっとライアンを(さいな)みつづけていたのだった。

 その後、修学院での生活が始まるまで、雨の中に母を見送る光景が、さまざまに形を変えて夢に現れてくることが度々あった。夢に出てくる母の面影は(おぼろ)げだったが、間違いなく母だと確信できた。

 話しながらご飯を食べたり、追いかけっこをしたり、一緒に積み木をしたりするのだが、決まって母は不意に背を向けて、そのまま先に歩いていく。「お母さん、お母さん」と呼んでもその声は声にならず、母は止まってくれない。ふいにどこからか強い風が吹いてきて、その風に煽られて空に浮かんだ母がそのまま遥か遠くへ行ってしまうと、涙で濡れた枕の冷たい感触に気づき、ああ、夢だったんだ、と思うのだった。

 そんな夢を見ることを、なぜかミロイにもコバックにも一度も話したことはなかった。

 まどろむうちに、いつの間にか、今もまた同じ夢を見ていたようだ。


「お母さん、この風はどこまで吹いていくの」

 見上げる母の顔は茫漠としていたが、慈愛に満ちたその瞳は、懐かしいお母さんのものだった。

「この風はね…」

 そう言うと、母は背を向けて歩きはじめた。

 あ、久しぶりにまたあの夢を見ている、と、夢の中の母と分かっても、もう少しだけ話がしたくて、「お母さん」と、ライアンは必死に呼びかけた。

 声が聞こえないのか、母は黙ってどんどん歩き去っていく。

 が、母は急に足を止め、くるりと振り返った。

 その顔を見てライアンは驚いた。母だと思って覗いたその顔は、いつの間にかミロイに変わっていた。

「ミ、ミロイ。お前、サージェンに行っているんじゃなかったのか」

 ミロイは何も答えず、ただぼんやりと、こちらを見るともなしにじっと見つめている。

 近づいて行こうとするが足が地面に張り付いたように動かない。

「足が動かないんだ。ミロイ、ちょっとこっちに来て手伝ってくれよ」

 ライアンが叫ぶと、相変わらず黙ったままのミロイの身体がゆらゆらと揺れはじめた。

 そして徐々に体の厚みが無くなって、まるで一枚の紙のように薄くなると、あっという間に細かい筋が網の目状に全体に広がっていく。それぞれの筋から一つひとつ千切れていき、粉々の紙吹雪になって、最後は風に巻かれてどこかへ飛んで行ってしまった。

「ミローイ」

 ライアンは絶叫した。


 その自分の声で目が覚めた。

 体を起こすと、全身に鳥肌がたっている。

 どうして母さんがミロイになったんだろう。

 今までこんな夢は一度も見たことがない。もしかして、ミロイに何かあったんだろうか。それとも、これから起こるのか。夢の中のミロイは喋らなかったけれど、何か言いたそうな顔をしていた。

 いやいや、待て待て。たかが夢じゃないか。

 サージェンに就いていることで、何かあるわけがないさ。コバックもいるんだし。ミロイの初めてのサージェンが余程心配だったか、あるいは次に自分がサージェンの任務をやるときのことを思う不安が、ミロイの姿を借りて出てきたのかもしれない。

 あれだけ降っていた雨があがっているようで、今は風が窓ガラスを揺らす音が、強くなったり弱くなったりしてずっと続いていた。

 何でもないと思おうとしても、心臓が波打ち、背中から肩に走る寒気で鳥肌が治まらない。自分の体の中の何かが、必死に警告を発しているように思えた。

 ミロイのところに行ってみよう。

 何もなければ、ちょっと冷やかしに来たと言えば笑っておしまいになる話だ。もう、十年前とは違う。何かをやらないで後悔したくはない。

 ライアンはベッドを抜け出し、着替えはじめた。

 外に出ると、風が止んでいた。

 何かがおかしい。

 きーんという耳鳴りが、頭の奥で鳴っている。

 この嫌な感じはなんだろうと思っていると、大地が細かく揺れ、そして微かに空気が震えるような感覚が伝わってきた。

 そういえば、寮で着替えをしているときに今と同じような感じがしたことを思い出した。

 やっぱり何か変だ。

 不安が全身を搔きむしるような感覚を覚え、ライアンは走り出した。

 走り出してすぐに、異変の原因が分かった。

 見上げた先、一の院がある辺りが暗がりの中でそこだけ浮き上がるように明るく光っている。

 火事だ。

 微かに人の声が波のように聞こえる気がする。一の院には本堂と寺務所、そして宿舎と住居がある。どこから火が出ているんだろう。ここから見えるだけでもかなり広範囲に火災が広がっているように思える。

 ライアンは逸る気持ちで転びそうになりながら、一の院に続く石段まで駆けた。

 石段が見えるところまで来たとき、ぬかるみに足が滑って横滑りに転んでしまった。起き上がろうと手を地面につけると、後ろから「ライアン」と誰かに呼びかけられた。

 振り返ると少し後ろにクロウが立っていた。

 立ち上がって近づいたライアンが震える息を吐きながら、「どうしてここに」と訊くと、クロウは顔を上げ、そこからは木々で遮られて見えない一の院の方に視線を向けて、「燃えている」と言った。

「火が見えて、ピノおじさんのところから戻ってきたのか」

 クロウは黙ったままだ。

 そしてまた地面が揺れ、ずんという響きが体を包んだ。それは断続的に何回か続いた。

「クロウ。これは、何なんだ」

「俺にも分からない」

「ミロイがサージェンに就いている」

「ああ。さっき聞いた」

「コバック叔父さんも…。俺は、…ミロイの身に何か起こっているような気がしてならないんだ」

 しばらく沈黙が続いた後、クロウがライアンの顔を真っ直ぐに見つめた。

「これは敵襲だ」

「え…、敵」

「焦げくさい臭いの中に、濃い血の匂いがする」

「そ、そんな…、誰がそんなことを」

「ロクトに不満を持つ島の人が襲った可能性も考えられるけど…、おそらく外の人間」

「島の外から…、いったい何のために」

「わからない…。ロクトを占拠してこの島を乗っ取るつもりなのか」

 二人は互いに下を向き、押し黙ってしまった。

「俺、やっぱりミロイのところに行くよ」

 ライアンが呟くようにそう言うと、クロウはライアンの両肩を、がしっと掴んだ。

「上は戦闘状態のはずだ。新米エグサの俺たちが行っても足手まといになるだけだ」

「なら、どうしろってんだよ。このままじっと待てって言うのかよ」

 ライアンの目が潤み、溢れた涙が一滴(ひとしずく)、押し出されるようにふわりと落ちた。

「俺は嫌なんだよ。もう…、もう、誰も失いたくない…」

 最後は独り言のように叫んだライアンがクロウの手を振りほどこうとしたとき、ライアンの後ろ、灯篭の淡い光に照らされた石段に目をやったクロウがライアンの手を掴みなおし、しっ、と人差し指を口にやると、「誰か、来る」と言った。

 クロウの視線の方向に目をやると、雨に濡れた石段を信じられない速さで駆け下りてくる黒い人影が見えた。

 クロウは背負っていたゼンガ(森の狩人たちが好んで使う小弓)を構えて弓を(つが)え、「ライアン、小刀を抜け」と立ち尽くすライアンに声をかけた。

 クロウの声に、びくっと身体を震わせたライアンは、慌てて腰の拝領小刀を抜き、コバックがくれた緋色の縛り紐を右手首に巻きつけた。

 雨模様の宵闇、しかも濡れて滑りやすい石段を走って降りるだけでも相当な怖さがあるが、黒い人影は小動物のように跳ねながら、最後の何段かを一気に飛んでライアンたちの前にふわりと降り立つやいなや、二人の間を低い姿勢のまま風のように駆け抜けて修学院の寮の方へ行ってしまった。

 一瞬だけ見えた子どものように小柄な男は、サージェンの警護士の服を着ていた。


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