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BOUNDARY ~境界線~  作者: 八木 康
アレフォス島
17/74

導師コーエン

 コーエンの目に力が(みなぎ)り、皺だらけの腕の筋肉が盛り上がる。

 圧縮されて高温になった空気の分厚い塊に、喉元に浮き出た血管が張り裂けるほどの力を込めてコーエンは右拳を叩きつけた。

 衝撃音の後、稲光を道連れにしながらコーエンの雷撃拳がクレスたちをめがけて恐ろしいほどの速さで突き進んでいき、金髪の男が創りだした炎渦の盾に激突すると、眩い光が明滅して、どおん、という鈍い音とともに地面が揺れた。雷撃拳を受け止めた炎渦は、触手を広げてその空気の塊を包み込み、男が拳を閉じると、白煙をあげながら徐々に小さくなって虚空へ消えていった。

 辺りに立ち込めた煙が晴れると、金髪の男が右拳を突き出したまま何事もなかったように(たたず)んでるのが目に入り、コーエンは愕然とした。

 まさか…、雷撃拳を掻き消したのか…。

「おぬしは何者じゃ」

 雷撃拳を連発したことで予想以上に体力を消耗したコーエンが、肩で息をしながら大声を張り上げた。

 あらぬ方を見ていた男が、すっと上目遣いにコーエンに視線を向けた。が、すぐにまた暗い夜空を見上げて動かなくなった。

 ぽつ、ぽつと、思い出したように雨が降りはじめた。

 つとクレスが前に出て、男の肩に手をかけながら顔を上げた。

「紹介しよう。この男の名は、アルゴ。かつてルマン島を治めていた、火光石を継承する一族、エルドファの血を引く者。そして、その右腕のブレスレットに(あか)く輝く石こそ、火光石ゴブルだ。コーエン殿がどれほど鍛錬を積まれようと、ゴブルの前にはそよ風程度の力しか出せないことは、今そなたが目にしたとおりだ」

「馬鹿な。ルマン島の光石、火光石ゴブルだと。いったい何を言っておるのだ」

「そのやり取りは、さっきの男ともうやったところだ。まあ、無理もない。他島の光石への関心を封じること、これこそが光石を封印したムラジの最大の術式だからな」

「な、なんだと。なぜムラジ大導師がでてくるのじゃ」

「はぁぁ。これから歴史の講釈をする時間はないが、ついでにどうでもいいことを教えてやろう。ルマン島は、このアレフォス島と違って個人主義の強い土地柄でな。組織的な団結や忠誠心に乏しく、町ごとに主権や利害を求めて常に争ってきたという、血なまぐさい歴史があるのはご存じかな。ゴブルは光石守護の継承者であるエルドファ一族に弓を引いたメヒア一族が盗んで持っていたのだが、光石の扱いも知らぬ者が封印を解いたせいで割れてしまってな。それを我らが手助けして、正当な継承者であるアルゴ殿の手に返して差し上げたという次第だ」

 さて、と言って、クレスはぽんぽんと手を叩いた。

「荒かったコーエン殿の息が、おしゃべりをしすぎて整ってしまったではないか。コーエン殿、これがこの世の見納めになるが心残りは無いかな。ご安心くだされ。そなたの亡骸は骨まで燃えて塵となり、風に運ばれてこの森に降り注ぐことになるであろう」

 ふいにアルゴがコーエンに視線を向け、再び突き出した手をぐるぐると回しはじめた。円の中心に、ぼっと炎の渦ができ、シュルシュルと音を立てて大きくなっていく。

「好きにはさせぬぞ」

 コーエンは大きく息を吐くと、腰を落として腕を引き、力を溜めた。

 ふいに大きな雨粒が真っ暗な空からばらばらと落ちてきて、やがて跳ね上がる水しぶきが音をたてはじめると、視界が霞むほどの雨が降ってきた。

 火光石ゴブル…。

 (にわか)かには信じられぬが、雷撃拳が掻き消されたことを考えればあながち嘘とは言い切れぬ。ほかの島にも同じように光石があるというのか。そしてザレから授かったこの力も、光石そのものの力には歯が立たぬということか…。

 だが、何としてもここで奴を倒さなければ…。

 額に当たった雨粒が眉間を伝ってコーエンの瞳を滲ませた。

 目を(しばた)くと、コーエンの脳裏に、かつて兄のように慕ったサザーラン教官が、若い頃のままの姿ですくっと立っている情景が映し出された。

 そういえば、あの日も、こんな土砂降りの雨が降っておった。


 エグサになって五年が過ぎた夏、コーエンは港湾管理事務所での職務を終え、奥の院の天界櫓の先の目立たない場所で、日課としている一人修行を黙々と行っていた。

 正拳突きから体を戻して直蹴り、体を戻してまた正拳突き。これを延々と続けることが、コーエンの行っている修行である。百年に一人の逸材と言われたサザーラン教官が命じた内容だった。

 遠くでゴロゴロと空が鳴り、冷たい風がすうっと吹き抜けると、いくらも経たないうちに激しい雨が降ってきた。

「コーエン。こんな雨の日にわざわざ修行しなくてもいいだろう。もうやめておけ。風邪をひくぞ」

 振り返ると、くるくると巻いた長い赤毛の髪を雨に濡らしたサザーラン教官が立っていた。久しぶりに見るサザーランは、頬がこけて(やつ)れて見え、整った顔立ちが彼を余計に貧相な印象にさせてしまっていた。

 一年ほど前から咳が止まらなくなり、半年前に喀血してからはずっと宿舎で寝たり起きたりの生活をしていると聞いていた。そんなサザーランを、コーエンは一度も見舞いに行っていなかった。瘦せ細った彼の姿を見るのが怖かったのだ。

「サザーラン先生こそ、お体に(さわ)ります。早く帰って休んでください」

 そう言うと、コーエンはふっと息を吐き、再び一人修行を行いはじめた。

「ふふ。夏の夕立は気持ちの良いものだよ」

 ゆっくりとコーエンの前に回りながら、

「石段を登っているコーエンを見つけてね。すぐに追いかけたんだけど、いやぁ、やっぱり寝てばかりいると体力が無くなっちゃうね。まったく追いつけなかった。でもね、最近はとても調子がいいんだ」

 と話しかけるサザーランに何も答えず、コーエンはただ黙々と正拳突きと直蹴りを繰り返していた。

「しかし、良く飽きもせず、同じことばかりしているねぇ」

 コーエンは動きを止め、サザーランを、きっ、と睨みつけた。

「お前は何もない道を歩いていても三回に一回は転ぶような不器用な奴だから、これから先、正拳突きと直蹴りをずっと繰り返し修行するとよい。そうすれば必ず何かを会得できるはずだ、とおっしゃったのはサザーラン先生です。以来、一日も欠かさず、ずっとこれを続けている私が馬鹿みたいじゃないですか」

「まあまあ、そう怒りなさんなって」

 と言ってサザーランは微笑み、すっと左手のひらをコーエンの目の前に出して手を開いた。

「コーエン。私のこの手を思い切り突いてごらん」

 雨足が弱まり、強い風がさっと吹き抜けると、すぐ近くに稲光が走り回り、腹をえぐるような雷鳴が轟いた。

「なんだい、その顔は。病気の私に拳を当てたら死んでしまうかも、なんて考えているんじゃないだろうね。馬鹿にするのも大概にしてほしいな。コーエンの不器用な正拳突きなら、今の私でも、小指一本で止めてみせるよ」

「分かりました。行きますよ」

 コーエンは両手を腰に当てて構えをとった。サザーランは左手を突き出して半身に構えたが、力を入れずに真っ直ぐ立っているままだった。

 何故か無性に腹が立ち、コーエンは

「どうなっても知りませんよ」

 と言いながら、思い切り右手を繰り出した。

 ばちん、という大きな音を立て、微動だにしないサザーランの左手がコーエンの正拳突きをしっかりと受け止めていた。サザーランの手は、岩のように硬かった。

「なんだ。しっかり修行の成果が出ているじゃないか」

 えっ、と驚くコーエンに、

「さあ、もう一度、集中してごらん。今のお前なら、風と大地の力を感じることができるはずだよ」

 と、サザーランは今度は少し腰を落として身構えた。

 コーエンは目の前で手を上げて構えるサザーランを見て、追いつけない背中を必死に追いながら、夢中で組手の相手をしてもらっていた修学院時代に戻った気がしていた。

 先生は、やっぱりすごいな。俺が何年も続けた正拳突きをあっさり受け止めたんだ。もしかしたら病気も快方に向かっているのかもしれない。

 コーエンは目を(つむ)り、大きく息を吸い込み、スダジイが抱えているザレの青い輝きを思い浮かべることに意識を集中した。

 しばらくすると、今まで感じたことのない、体が軽く浮き上がるような感覚を覚えた。すると、足元から無数の小さな青い火花がぱちぱちと立ち昇り、やがてコーエンの体が青く薄い膜のようなもので覆われると、体の周りの空気が徐々に歪んでいった。

「打て」

 サザーランの声に無意識に反応したコーエンの右手は、放電する光を幾筋も巻きつけながら、サザーランの左手を目に留まらない速さで打ち抜いた。サザーランは左手を後ろに弾き飛ばされ、くるりと反転して、たたらを踏むと、その場に倒れこんでしまった。

「先生」

 慌てて抱き起すと、サザーランの身体は火が出るように熱かった。

「先生、こんなに熱があるじゃないですか。なんでこんな無茶をしたんです」

 サザーランは力なく笑いながら、コーエンの肩をしっかりと掴んだ。

「まるで(いかづち)の撃拳だな」

「そんなことなど、どうでもいいです。早く宿舎へ」

 コーエンが抱きかかえようとすると、サザーランは、いやいやをするように(あらが)った。

「コーエン。よく…、よく頑張ったな。お前は不器用だが、己を信じて愚直に繰り返すことに天賦の才がある。私の病がもう少しよくなったら、次の修行を命じよう」

 コーエンは無理やりサザーランを背負うと、宿舎に向けて大急ぎで石段を下りて行った。

 いつの間にか雨が上がり、遥か西の空の暗い雲の隙間から、夕焼けの朱と青空が()い交ぜになった空間が広がり、コーエンは、なぜかそこだけ時間が止まっているように思えた。

 それから三月ほどして、サザーランは帰らぬ人となった。



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