標的
その少し前、天界櫓の上に登ったコバックは、ざらざらとした落ち着かない気持ちを持て余していた。
初めてのサージェンに就くミロイのことが心配で自分が緊張してしまっているのだと思い、なにやら情けない気持ちになって床に座り、気持ちを静めようとしていると、回廊殿堂に詰めるエグサから一の院から火が出たことを聞いた。コバックはそのとき、気持ちを乱しているものの正体が、これまで経験したことがないほど張り詰めた、この奥の院の空気なのだと感じた。
フリッツ律師に、この得体の知れない感覚を伝えてみるか。
ロクトの財務責任者で、修学院で数学の講師も務めるフリッツ律師は、冗談を言わず、論理的な会話を好む。家庭を持たず、飼っている小鳥たちと暮らす彼を変わった人として敬遠する者もいるが、コバックは八歳年上のフリッツとなぜか馬が合った。姉が亡くなって急に二人の甥の面倒を看なければならなくなったときや、教官への昇任、エグサとしての生き方、好きな女性を口説く方法など、些細な悩み事でも、ことあるごとに相談を持ちかけると、気難しい顔に似合わず、フリッツは快く話を聞いてくれるのである。もっとも、恋愛に関する彼のアドバイスは、どれも役に立たないものばかりだったのだが。
コバックは天界櫓を降りて中央の回廊殿堂に向かって歩きかけ、途中で立ち止まって目を瞠った。
回廊殿堂と天界櫓の間に仰向けに倒れ、頭に矢が貫通した状態で動かない人影がいたからだ。身につけている律師の服装から、すぐにそれがフリッツ律師だと分かった。
駆け寄って抱き起してみるが、彼はすでに息絶えていた。矢は右目から後頭部に向けて貫通している。
「フリッツ、律師…、どうして、こんなことに…」
一の院の火事。フリッツ律師の殺害。
いったい、何が起こっているのか…。
突然のことに状況が理解できないが、フリッツ律師が何者かに矢を射かけられて殺されたことは明白だった。
フリッツ律師に個人的な恨みを持つ者の仕業か。だが、温厚で生真面目なフリッツ律師が恨みを買うようなことは考えにくい。
それに、俺が感じている、この禍々しく重い空気は、そんな個人的な、単純なものじゃない。だとしたら、ロクトが…、エグサが標的になっている、ということか…。
そんなことがあるだろうか…。
コバックは短い間に目まぐるしく考えを巡らせる。
アレフォス島の歴史の中で、奥の院が襲われるという凶事は聞いたことがない。フリッツ律師も異変を感じ、俺のところに来ようとして、討たれてしまったのかもしれない。襲ったのは島外の人間か…。
コバックの眉間に、汗が一筋、流れ落ちた。
「はっ」
思わず声をあげて、コバックは辺りを見回した。
一の院の火事も、ひょっとして、これも、敵の陽動か。とすると、敵の狙いはここ、奥の院。ザレが目当てなのか…。
ザレが標的だとしても、スダジイの巨木に守られたザレをいったいどうやって奪おうというのだろうか。だが、俺の考えが正しければ、敵は計画的に今回の襲撃を行っている。おそらく、ザレを奪う方法を持っているのだろう。
用意周到な敵に対して、修練は積んでいても実践経験のない我々。状況は圧倒的にこちらが不利だ。事実、回廊殿堂にいたエグサのうち、四人は一の院に行ってしまっている。今ここにいるのは、各櫓にいるエグサと警護士、合わせて十九人、か。そのうち何人かはすでに殺られてしまっているかもしれない。
敵は…、急斜面の木立が広がるここに多勢で来ることはできないはずだ…、多く見積もって、三十人前後といったところか…。
やはり、この状況を一の院に伝え、援軍を呼ぶべきだろう。一ノ門櫓にいるスミフとミロイが一番近いが、飲んだくれのスミフと、初めてのサージェンのミロイではそこまで気が回らんだろう。
はあ…。ミロイ…、なんでミロイのサージェン初日にこんなことが…。
ふと耳を澄ますと、コバックの視線の先、地界櫓の方向から微かに剣戟の音が聞こえてきた。
地界櫓には、中年になって少し腹が出てきてはいるが、剣の使い手のルーロー律師がいる。もしかしたら敵と渡り合っているのかもしれない。
もう間違いない。これは敵襲だ。だとしたら、いま、この瞬間、俺も敵に狙われているかもしれない。
「コバックさぁん」
思考を断ち切るように、ふいに名前を呼ばれた。驚いて声のする方を見ると、コバックと同じ天界櫓に詰めている警護士のエスキーが、櫓の一階の戸を開けて手を振っていた。コバックは口に人差し指を立ててエスキーに声をあげないように促すと、急いでこっちに来いと合図した。
走ってきたエスキーは、フリッツ律師の亡骸を見て腰を抜かした。
「な、な、なんで、何が…、どうしたんすか」
「詳しく話している暇はない。今こうしている間に、俺たちも狙われているかもしれない」
「ね、狙われているって、コバックさん…」
「エスキー、しっかりしろ。フリッツ律師には申し訳ないが、二人で頭に担いで矢避けにして、回廊殿堂の下まで一気に走るぞ」
うろたえているエスキーを励まし、フリッツ律師を担ぐと、二人は呼吸を合わせて一気に回廊殿堂の軒下に駆け込む。運よく敵からの攻撃はないまま、軒下に入ることができた。
フリッツ律師の亡骸を静かに横たえ、開いたままの左眼を、コバックは優しく閉じてあげた。
「ああぁ、なんで、フリッツ律師が、どうして、どうして…」
涙を流しておろおろするエスキーの顔を両手で挟んで揺らしながら、コバックは、「エスキー、エスキー」と叫んだ。
「落ち着け、落ち着くんだ、エスキー」
荒い息を吐いていたエスキーの胸が、 徐々に柔らかくなっていった。
「何が…、いったい、何がどうなっているんです」
「わからん。だが、ロクトが…、奥の院が襲撃されていることは間違いない」
辺りを見回しながら答えたコバックは、ふとエスキーを見つめた。
「お前と一緒に天空櫓についていた、ライズはどうした」
エスキーは、ごくん、と唾を飲み込んだ。
「そうなんす。ライズのやつ、便所に行ったまま帰ってこねぇんで、様子を見に行こうと思って…」
コバックは額の汗を拭うと、うーん、と唸った。
奥の院の便所は、西側の地界櫓の先にある。
ライズを襲った敵と、ルーロー律師は戦っているのか…。加勢したいが、むやみには動けない。
ライズ。ルーロー律師も無事でいてくれ。




