胸騒ぎ
一の院の宿舎からフリッツ律師を先頭に八百段の石段を縦一列になって上っていくと、ミロイが今夜サージェンで配される一ノ門櫓が見えてきた。一ノ門をくぐり、隊列は木界櫓と水界櫓の間に整列した。
雨は小止みになったが、時折唸りをあげた空から強い風が吹きつけると、いくつも置かれた篝火が消え入りそうになりながら、またゆらゆらと燃え盛るのを繰り返している。正面には暗闇にもその堂々たる威容をみせているスダジイと、その根元を取り囲む回廊殿堂が見え、真っ直ぐに伸びる雨に濡れた石畳が篝火の灯りを儚げに映しだしていた。
回廊殿堂の前には昼組の人たちがすでに整列していた。
フリッツ律師は昼組の隊長と短く言葉を交わした後、夜組の前に立って両手を空に突き出すと天を見上げた。
「奉剣演舞」
フリッツ律師の号令で、ミロイの前に並んでいた五人のエグサがゆっくりと前に進み出て、腰紐に巻き付けられた拝領小刀を鞘から抜くと、円陣を組んで刀を天に突き上げた。五人はエグサの装束の上に白いマントを羽織っており、そこにはそれぞれに違ったデザインの瑠璃色と緋色の幾何学的な模様が刺繍されている。
五人のエグサたちはさらに大きな円に散らばり、ある者は片膝をつき、ある者は剣を構えて腰を落とし、ある者は両手を広げて片足を上げたりしながら、時に近寄って剣を振り下ろすのをぎりぎりで避けたり、時にくるくると回りながら剣を交える仕草をしたり、跳躍し、躍動しながら舞っていく。小刀が篝火の火を映して橙色に瞬くと、白い鳥の群れが夕陽の朧げな光の輪の中で戯れているように見えた。
五人は再び中心に集まると、もう一度剣を天に突き上げ、ゆっくりと鞘にしまった。
彼らの吐く白い息が、風にさらわれて消えていった。
修学院でも練習する奉剣演舞は、サージェンに就くたびに舞う奉納の儀式で、様々な祭事にも行われる神聖なものだが、実際に間近で目の当たりにすると、サージェンが清廉な神事であることをミロイは改めて実感したのであった。
奉剣演舞が終わると、夜組はそれぞれ持ち場に散っていった。
コバックは一番北にある天界櫓が担当のようだ。
櫓の一階に詰める警護士二人とともに、ミロイとスミフは一ノ門櫓に行き、梯子段を上って二階に上がった。二階は十人ほどが寝ることができる板敷になっていて、柱や板壁がむき出しになった殺風景な部屋だ。四方にある木製の引き戸は締めきられていて、風が当たるたびにがたがたと音を立てている。中央には火鉢が置いてあり、昼組の人が熾しておいてくれていた炭の熱がほんのりと漂っていた。
スミフは火鉢の前にどっかりと胡坐を組むと、背負い袋から素焼きの酒器を取り出して酒を注ぎ、ぐびりと旨そうにひと口呑んだ。
「あぁ。ここで吞むリル酒は格別だ。固いこと言うなよ、ミロイ。これはお神酒だ」
ミロイはくすっと笑いながら、腰から拝領小刀を鞘ごと外して火鉢の前に座った。
「綺麗な縛り紐だな」
「ええ、コバックがライアンと僕に編んでくれたんです」
「ほほう。あいつはあの図体で手先が器用なんだから、人は見かけによらんなあ」
「まったく」
声をあげて笑うと、少し間をおいて、「ところで」とスミフは言った。
「どうだい。エグサになって、何か意識は変わったかい」
「そうですねぇ…」
「おう、何でも言ってみな。なぁに、何を言ったって、誰にも言いやしねぇさ」
ミロイは居ずまいを正してスミフの目を見つめた。
「スミフさんは、ザレは、何のためにあるんだと思いますか」
「おっと、いきなり難しい質問だなぁ」
スミフは思案顔で無精ひげを撫でまわしながら、「そうだな」と言った。
「俺はエグサになってすぐ、森林監督庁に行ってな。広大な森の中で、木を間引いて新しい苗木を植え、計画的に木を伐って必要な木材を搬出する、そんなことをずっとやってきた」
スミフはリル酒を一口飲むと、手で口を拭った。
「俺はこの年になっても、ずっと独り身でな。身内と言えばバレの町に母親がいるだけの気楽な暮らしをしてきたんだが、その母親が三年前に倒れてしまったんだ。身の回りの世話が必要になったんで、転属を願い出て、今はロクトの花屋をやっているってわけだ」
スミフは酒臭い息をミロイに吹きかけた。
「おい、ミロイ。人は何のために生まれて、生きているんだと思う」
「えぇっと…、何のため…、ですかね」
「ふん、誰でも分かってるさぁ。子どもを産んで育てて、死んでいくためだよ。人に限らず、この世に生きとし生けるものは、すべてそのからくりに縛られてんのさ。その理屈で言うと、俺なんかは生きる意味がない生き物になるんだろうが、だが人は、この世で唯一考えることを知ってしまった生き物だからな。生きる意味、意義っつうのは、自分で考えることができるってことなんじゃねぇかな。俺は山の中で草木と一緒にずっと生きてきた。その中で、木や草や花が何を望んでいるか、分かるようになってきた。それは俺の才能や努力の結果かもしれねぇ。だけど俺は、ザレがそう導いてくれたものだと信じてる。ザレってのは、そういう存在なんじゃねぇかな。答えになってないかもしれんが」
小刀の鞘に結び付けた縛り紐を指で弄びながら、ミロイはふうっと息を吐いた。
「生きる意味か…」
ミロイがそう呟くと、スミフが口先に人差し指を立てて、しっ、と言った。
「ミロイ。何かおかしくねぇか」
「えっ。何がですか」
「森の木々が騒いでやがる。こんなことは…、こりゃぁ、何かとんでもないことが起こっているかもしれねぇ」
櫓の外に意識をやると、あれだけ吹いていた風が止んでいる。空気が張り詰めて耳が痛い。
外で人の走る音が聞こえ、スミフさーん、と呼ぶ声が下から聞こえた。
「なんだ、どうした」
板戸を開けてスミフとミロイが下を覗くと、中央の回廊殿堂に詰めていたエグサの四人が立っていた。
「一の院で火事のようです。フリッツ律師の命で、我々はこれから状況を把握しに行きます。スミフさんたちは指示があるまで櫓で待機。場合によっては今夜のサージェンは中止として、消火活動に当たるかもしれない、とのことです」
「わかった。気をつけてな」
「はい」
櫓の上から一の院は木立に阻まれて見えないが、麓の方に目をやると確かにほの明るく見え、木が焦げるような臭いも立ち上ってきていた。
「一の院で火事。炊事場から火が出たんでしょうか」
「わからんが、何か嫌な胸騒ぎがする」
スミフの緊張した顔を見て、ミロイは首筋がひやりとするような気がした。




