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BOUNDARY ~境界線~  作者: 八木 康
アレフォス島
10/75

止まらぬ雨音

 修学院から続く石段を登りきると、白く大きな石で組まれた高い壁が左右に広がる場所に出た。

 一の院である。

 開け放たれた大きな門の先に砂利敷きの広い空間が見えているが、一の院の規模はここから推し量ることはできない。

 雨は小止みになったが、ときおり空が吠えるように強い風が通り向けていく。標高が高いせいか顔に当たる風は冷たいが、三千もの石段を登ってきた体はうっすら汗ばむようで、冷えた空気が心地よい。

 ミロイは正門脇に立つ警護士に挨拶をして敷地の中に入ると、左手の宿舎建物に向かった。

「ミロイ君、ずいぶん早いな。初めてのサージェンだからといって、そんなに張り切らなくていいのだよ」

 宿舎の入り口の大きな木の扉を開けて中に入ったミロイに声をかけたのは、フリッツ律師だった。今日から一週間続く、夜組のサージェンの隊長である。

 フリッツ律師は算術に長け、ロクトの財務責任者を務めていて、修学院でも講師として算術を教えていた。くるくると巻いた黒髪を短く刈り上げ、鼻の下に薄くひげを生やしたフリッツ律師の容貌は、算術の教官らしい気難しい人といった感じなのだが、律師が住む家として割り当てられた住まいに小鳥を数十羽も飼っていて、休みの日などはずっと小鳥に話しかけているらしい。

「コバックもわざわざ代ってもらってサージェンに就くらしいね。修学院の鬼教官も、なんだかんだ言って結構な親馬鹿ぶりだなぁ」

 そう言ってミロイの肩をポンと叩くと、フリッツ律師は廊下を奥に向かって歩いて行った。その背中に軽くお辞儀をすると、ミロイはぐるっと辺りを見渡した。

 宿舎の玄関を入ったところはテーブルが五つほど並び、壁際にぐるりと腰かけが作られていて、ちょっとしたスペースになっている。夜のサージェンで十二人のエグサと二十人ほどの警護士が就くことになるので、各々がここで食事をしたり、打ち合わせをしたりする場所になっていた。奥には調理する場所もあって、メニューはそれほどないが、専任の調理師が温かい食事を出してくれるし、携行用の乾パンや干した芋なども支給してくれる。

 集合時間にはまだ少し時間があるせいか、エグサは誰もおらず、警護士として雇われた島民が五人、テーブルや壁際の椅子に腰かけて話し込んでいた。警護士といっても島民であるからには全員が修学院の卒業生であり、ナルッサでエグサに選ばれなかっただけで、立ち会えばエグサよりも強いのではないかと言われる猛者も多く、特に古参の警護士はかなり怖い人もいるらしい。ただ、実際に戦闘行為があるわけでもなく、サージェンとは風光石ザレをお守りする神事であるので、下世話な話をすれば島でのいい働き口として警護士を希望する者は多いのである。

「ここ最近の雨はやはり異常じゃないか。なんか俺は、十年前の洪水みたいなことが起こるような気がしてしょうがねえんだ」

 警護士の誰かが言った言葉が耳に届き、ミロイの身体を金縛りのように動けなくした。

 十年前の大雨。洪水。それはやはり耳にしたくない言葉だった。

 逃げるようにしてミロイは待機場所を通り抜け、会議室の手前の壁に張り出された今夜の配置表を見に行った。

 大きく息を吐いて配置表の中を探すと、ミロイの担当は三千八百の石段を上りきり、奥の院に着くと目の前に現れる、一ノ門の上にある(やぐら)だった。


 奥の院は切り立った山脈の中腹にぽっかりといった感じで開けた場所にあり、御神木のスダジイが平らな敷地の中心に天高く直立し、背後には切り立った岩肌が屏風のように広がっている。

 スダジイの根元には巨大な幹をぐるりと囲む、回廊殿堂と呼ばれる建物があり、ザレがエグサを選ぶナルッサの儀式もここで行われる。修学院生が三人の導師に導かれ、スダジイの幹回りをゆっくりと時間をかけて一周し、最後に、建物の壁と錯覚するようなスダジイのささくれた表皮に手を触れる場所である。

 五角形をした回廊殿堂の頂点からは放射線状に石畳がまっすぐ伸び、その先には、この世を構成する五つの世界を現わす五界櫓と呼ばれる五つの櫓が建てられている。北の頂点にある天界櫓から、時計回りに空界櫓、木界櫓、水界櫓、地界櫓と呼ばれるこの櫓には、サージェンではエグサが一人ずつ配置される。

 五界櫓どうしも直線の石畳で結ばれ、空いた空間には白い石が敷き詰められていて、生い茂る枝葉がそれだけで森のように見えるスダジイの圧倒的な存在感が創りだす象徴的な対比と、建物の青銅色の屋根と朱塗りの柱のコントラストが、奥の院に立つ者を荘厳で神々しい空間に(いざな)うのである。


 ミロイは自分の担当が一ノ門櫓と知って少しがっかりしたが、見習いエグサの身分ではやっぱり五界櫓に配されることはないか、と思いなおし、同じ一ノ門櫓を担当する、スミフという名前が書かれてあるのを見つめて、スミフというエグサがどんな人だったかを思い出そうとしていた。

 二百人ほどいるエグサはアレフォス島内のあちこちにある行政機関にも配属されるので、ロクトの寺院としての建物である、奥の院、一の院、下院にいるのはその三分の一の七十人程度なのだが、修学院しか知らないミロイには、顔も名前も知らないエグサも多かった。スミフという名前に聞き覚えがあるような気がしたが思い出すことができず、ミロイは更衣室に行き、雨に濡れてしまった服を着替えることにした。

 着替えて人心地がつくと、ミロイは更衣室の長椅子に腰かけて、しばらくぼんやりと考え込んでいた。

 サージェンを通してザレに意志が通じることができたならば、この長雨が止むことを祈ろう。

 そう、思ってはみたものの、何千年もの長い年月を絶えることなく、エグサたちがザレに祈りを捧げてきたはずなのに、なぜ十年前にザレはアレフォス島を守ってはくれなかったのだろうか、という思考に、また辿りついてしまう。

 島の守護石であるザレがあるのに、どうして両親を含めた島民の多くが犠牲となるような災害が起こってしまったのか。

 ザレは島を守護する石なんかじゃないのではないか。

 そんな想いがミロイの頭の中を満たしていた。

 ザレとは何なのか。それを僕は追求しよう。

 その答えがわかって初めて島の人たちを守れる気がした。


 会議室にはすでに三十人ほどが集まっていた。コバックも来ていて、フリッツ律師と何やら話し込んでいる。辺りを見渡していると、窓側の席に座る人がミロイを見ながら手を振っているのに気がついた。

 ああ、あの人がスミフさんだ、と思い出した。

 ロクト下院の敷地のあちこちに花壇が設けられているのだが、そこの管理を任されているのがこのスミフというエグサだった。スミフはミテルス導師ほどまではいかないが、草花の声を聞き、何を欲しているのか理解することができるのだそうだ。事実、スミフが植える花々は四季を通じて色とりどりの花を咲かせ、参拝に来る者の目を和ませてくれるので、スミフが管理する花壇を回りその花を愛でる島の人も多かった。スミフが土まみれになりながら、雑草を抜き、花の苗を入れ替えたりしている姿をミロイは何度か目にしていたのだった。

 隣に座ると、「ごくろうさん」、と言って、スミフはミロイの肩を、ぱしっと叩いた。

「ミロイだね。私はスミフだ。今日から一週間、よろしくな」

「こちらこそ、よろしくお願いします」

 話をしたことはなかったが、スミフが自分の顔を知っていてくれたことがミロイはちょっとうれしかった。白髪が(まさ)った角刈りに、鋭い目をした容貌のスミフは、草花を活かす職人気質の頑固おやじに見えたが、その声音は意外に優しい。

 スミフと雑談していると、フリッツ律師が前に出て点呼をとりはじめた。

 ひと通り名前を呼び終わり、今夜のサージェンの諸注意を説明し終わると、フリッツ律師はミロイを手招きした。

「みんな知っていると思うが、彼が新しくエグサになったミロイ君、そこにいるコバック教官の甥子さんだ。さ、ミロイ君、一言」

「初めまして、ミロイ・バトラーです。少し緊張していますが、無事サージェンを務められるように頑張りますのでよろしくお願いします」

 会場から拍手が起こり、コバックが立ち上がって周囲に手を挙げた。なんだ、コバックの方が緊張しているな、などと古参の警護士から揶揄(やゆ)されて、コバックは頭を掻きながら席に座った。

「ミロイ君ありがとう。スミフ、一週間ミロイ君を指導してあげてくれ」

 スミフが手を挙げて応えると、フリッツに促されてミロイは席に戻った。

「それでは、と、何か質問のある人はいるかね」

 ミロイの斜め前の席にいた小柄な警護士が、遠慮がちに手を挙げた。

「エスキーかい。どうぞ」

 エスキーと呼ばれた男は、何回か咳払いをして、ようやく話しはじめた。

「エグサの人たちは、ここんところの長雨をどう思ってるんすか。もうひと月、まともに晴れた日はねえっす。島の(もん)は、十年前みたいなことになるんじゃねえかって、みんな心配してるんす」

 会場が少しざわつく中、フリッツ律師が大きく頷いた。

「そうだね。私もこの長雨は少し心配しているところだ。だけどみんなも知っての通り、あの災害の後、アドリラ川の堤防はさらに高くしたし、大きな逃げ池も二つ造っているから、洪水の心配はないと思うよ」

「だけれども、こんだけ雨が続いたら、農作物にも影響が出てくるんじゃねぇっすか。十年経って、やっと畑も田んぼも以前に近い収穫ができるようになってきたのに、これじゃぁ、ひでぇ被害が出るに違いねぇっす」

「うむ。君たちの心配ももっともだ。ミテルス導師もこの状況を心配しておられて、島内の作物の状況を調べているところだ。今夜のサージェンでは、皆で雨が止むことをザレに祈るとしよう」

 フリッツ律師の言葉にエスキーはまだ納得していない感じで頭を振りながら、ゆっくりと腰を下ろした。

 強い風が窓ガラスをがたがたと揺らし、隙間風が甲高い音をたてると、皆の顔に滲む不安の影がより一層濃くなっていった。


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