選ばれし者
肩を叩かれて、少年は自分の番が回って来たことに漸く気がついた。どうやら何回も名前を呼ばれていたらしい。
先導役の男は軽くため息をつきながら、先に階段を上ると後ろを振り返った。
早くしろ、と目が言っている。
算術の教官でもある先導役の男は、交錯する菱形の図相が白く染め抜かれた儀式用のマントを着ていた。気難しい顔が強ばって見えるのは、神聖な儀式に緊張しているからだろうか。少年も、この儀式のための特別な純白のマントを羽織っている。夏も盛りを過ぎた夜更け、標高の高いこの場所では、マントを着ていないと少し肌寒かった。
四十三人いる仲間の最後尾に立っていた少年は待ちくたびれてしまい、頭上を覆いつくす枝葉が、燃え盛る篝火の光を照り返して橙色に揺らめくさまを飽かずに眺めながら、ぼんやりと考えごとをしていた。
目の前にある木、木というにはあまりにも大きすぎて、緩やかに湾曲する円柱の巨大な建物が空に向かって屹立しているように見える巨木。この地に芽吹いてから重ねてきた年月は、軽く千年を超えると教えられた神聖な木。千年を数える間にいったいどれほどの葉を落としていったのだろうか。
虫が奏でる鳴き声と夜空を舞う風が木々をざわつかせる音の不思議な旋律が辺りを満たしていた。
ふと、調和した音の隙間から、誰かが囁く声が聞こえた気がした。耳を澄ますと声は止み、しばらくするとまたひそひそと話す声が聞こえる気がするのだが、何を話しているのかまでは聞き取れない。何なのだろうか、と考えていた少年の耳に、先導役の呼ぶ声は届かなかったようだ。
巨木の根元には周囲をぐるりと囲う建物があり、少年が登っていく階段は建物の南側に位置している。先導役が階段の先の扉を開き、促されて建物の中に入ると横に長い空間が左右に広がっていて、いくつもの行灯の光が室内を思いのほか明るく照らしていた。左右の端からは同じような横長の空間がさらに斜めに伸びている。部屋の奥に壁はなく、建物を支える朱塗りの柱が規則正しく立っているだけで、むき出しの巨木の幹が見えていた。
先導役が一礼して下がり、代わって近づいてきたのは真紅のマントを纏った老爺である。少年よりひと回りは小さい老爺だが、その眼光は鋭く、儀式を取り仕切る立場の一人だった。
威厳あふれる老爺は恭しく頷くと、聞き取れないほどのくぐもった声でぶつぶつと何かを唱えながら左の方へ向かって歩き出した。少年もその後に続いてゆっくり歩いていく。
左側の端まで行くと、目の前の巨木との間の一段高く仕切られたところに祭壇が設けられていた。老爺は祭壇の前まで来ると少年を振り返り、流れるような所作で小脇に抱えた金色に光る壺から清水を少し掬うと、首を垂れる少年の頭に振りかけた。
老爺は左を向き、何かを口ずさみながらまた歩き出す。少年もまた同じようについて行く。斜めに伸びた同じような部屋を進み、端の祭壇で立ち止まると清水をかける。同じ動作を五回繰り返すと、最初の部屋に戻ってきた。
出入り口の扉の両脇にある行灯だけが灯されているので、入ってきた時とは違って部屋はかなり薄暗くなっている。
部屋の中央に進んでいくと、老爺と同じ真紅のマントを着た男女が立っていた。少年が奥に向かって歩いていくと、男女は左右に分かれて片膝をつき、老爺は少年の後ろで片膝をついて少年を見あげた。
巨木の幹に息がかかるほど近づくと、また囁くような声が聞こえた気がして少年は上を見上げた。無数の亀裂が縦に走る巨木の樹皮はざらざらとしている。声は聞こえなくなり、風に枝が揺れる音だけが聞こえている。
ゆっくりと、少年は右手で巨木の木肌に触れた。
何も起こらない。
この儀式は選ばれし者を見定めるためのものである。
自分が選ばれなかったことにがっかりした気持ちが半分、やっぱり選ばれなかったと安堵して納得する気持ちが半分、揺れ動く気分のまま、右手を幹から離そうとした瞬間、何かが激流のように巨木から自分に流れ込んでくるのを少年は感じた。と同時に、巨木に触れている少年の右手のひらを中心に、樹皮の亀裂に沿って淡い瑠璃色の光が一気に広がっていく。光は右手からゆっくりと少年の体全体に伝わっていき、巨木から噴き出した光り輝く瑠璃色の膜に少年が搦めとられてしまったかのように見えた。
両隣と後ろにいる真紅のマントを着た者たちが、おおぉ、という感嘆の声をあげている。
少しだけ赤みを帯びた青の世界の中で、溢れ出る光の波から少年は何かの想いを感じ取っていた。それは何かと問われれば、言葉で言い表すことは難しい。暖かみや優しさでは物足りない、もっと大きな感情のような気がする。
その感情をどう受けとめるべきなのか、予期せず自分が選ばれたことに対する責任にどう向き合えばいいのか、戸惑いながら少年はただ立ちつくしていた。