後編(完)
彼女が涙ながらに話したところによると、数ヶ月前までは普通だったらしい。鏡に映る自分の顔が普通に見えた。
だけど、この学園への転入が決まって喜んでいた頃だ。突然、鏡の中の自分の顔がおかしくなった。のっぺりとした肌色しか見えないのだ。目も鼻も口もない。彼女は悲鳴を上げて、家族に助けを求めた。
だけど家族は困惑の表情で「いつも通りよ?」「何も変わったところはないぞ」というばかりだ。家族以外の人間に訴えても同じこと。
彼女を心配した両親は、眼の病にかかったのではないかと医者へ連れて行った。けれど異常は見つからない。もしや気づかないうちに禁呪の類をかけられてしまったのではないかと、今度は教会へ連れて行ったけれど、そこでも結果は同じことだった。
異常はない。病も呪いも存在しない。
「わたし……っ、わたしすっかり、自分の頭がおかしくなってしまったんだと思って……っ! これ以上お母さんやお父さんに心配をかけたくなかったから、治った振りをしていたんです……っ。もう大丈夫って、見えるようになったって……。でも、あの日から見えたことなんて一度もなかった! みんな、わたしの顔が見えるっていうのに、わたしには見えなかった! 触れば感触はあるのに、何も見えなくて……、ううっ……。自分がおかしくなってしまったんだと、ずっと思っていました。だから、会長がわたしを見て驚いたとき、まさかって思いました。わたしを見て真っ青な顔をして、そのまま倒れてしまって……っ、今も怖いですよね? 不気味ですよね? 顔がないんだもの、当たり前です! ごめんなさい、わたし、すごく嬉しかった……!」
彼女はついに泣き崩れて顔を覆った。
わたしはただ、彼女の背中をそっとさすって「大丈夫よ、わたしには見えるわ。あなたの顔がないのが見える。あなたはおかしくなってなんかいないわ。大丈夫よ」と慰め続けることしかできなかった。
自分が魅了のアイテム持ちの悪役令嬢(ほぼ全ルートで殺害スチルが待っている)に転生してしまったと気づいたときには、こんな酷い話がある!? と思ったものだけど、わたしは前世の記憶がよみがえって事情が理解できただけまだよかったのかもしれない。
ある日突然、理由もわからず自分がのっぺらぼうになってしまって、しかもそれが周りからは認識されていないなんて、想像しただけでもつらすぎる。
この学園への転入が決まった時期からということは、まさかゲームの強制力とでもいうものなんだろうか……?
いやいや、それは確かに顔グラなしの無個性ヒロイン物だったけどね!?
プレイヤー=ヒロインだから、プレイヤーには顔は見えなくても、周りからは普通に見えているし、攻略対象たちからは「可愛い」「きれいだ」と囁かれるのがお約束だけどね!?
でも、いくらゲームに顔が出てこないからって、のっぺらぼうにすることはないでしょうよ、ゲームの強制力なのか、意地の悪い神様の仕業なのか知らないけど!
わたしは前世の記憶について打ち明けようか迷った。
これほどの異常事態に遭遇しているなら、前世なんて突拍子もない話でも信じてくれる可能性は高い。
だけど、悩んだ末に、わたしは結局口をつぐんでしまった。確信が持てなかったからだ。彼女がのっぺらぼうになってしまったのがゲームのオープニングの時期なら、エンディングの時期、つまり卒業式の後には、彼女の顔は元に戻るだろう。おそらくは戻るはずだ。
でも……、絶対とはいえない。
もしも戻らなかったら? 戻るという希望に賭けて耐えてきたのに、卒業しても戻らなかったら、今度こそ絶望してしまうんじゃないだろうか。
そう思うと、明確な根拠もないのに、推測だけで中途半端な希望を見せる言葉は言えなかった。
わたしはただ「あなたはおかしくなっていないわ。わたしには見えるもの」といい続けることしかできなかった。それでも彼女は少しずつ落ち着いてきて、何度か深い呼吸を繰り返すと、おそらくは微笑んでいるのだろう顔でいった。
「取り乱してしまってすみません。わたし、本当に嬉しかったんです。会長には見えるんだってことが。自分でもびっくりするくらい、ホッとしちゃって……」
「あなたは立派よ。こんなに辛い思いをしているのに、ご両親に心配をかけまいと頑張っているんでしょう? 誰にでもできることじゃないわ」
「……っ、……ありがとうございます……! あの、会長はすごい魔法使いだって聞きました。いつも余裕で首席をキープしていて、難しい呪文も難なく使いこなすんだって!」
「大げさだわ」
それに、と、わたしは続けた。彼女が何を期待しているかわかったからだ。
「あなたの顔を見ることができるのは、わたしが特別優れているからではないと思うのよ」
「でもっ、会長以外は誰も見えなかったんです! 禁呪かもしれないって思って、何人もの有名な魔法使いに会いに行きました。親が高いお金を払って相談に行かせてくれたんです。だけど誰も見えなくて……、みんな異常はないっていうばかりだったんですよ!」
わたしは小さく息を吐き出した。
ある程度の事情は打ち明けるべきだろうと、心を決める。
「実はね、わたしは呪われているのよ」
彼女は、多分、眼をまん丸く見開いているんだろうなとわかるほど、大きくのぞけった。
「どうしよう、ごめんなさい、わたし、会長の目も鼻も口も見えます! 見えちゃいます!」
「落ち着いて、見えてもいいの。わたしの呪いは顔には影響がない類のものだから」
それからわたしは、胸元にぶら下がる呪いのネックレスと闇の宝石について話し出した。
魅了の効果があること。意識を操るほど強力ではないけれど、確実に周囲への作用はあること。自分が学園内で尊敬を集めているのは、このアイテムの影響だということ。
外す方法を探してあらゆることを試してみたけれど、高名な魔法使いでも魅了の影響を受けてしまうため、そこに呪いがあることを見抜くことすらできなかったこと。この話を兄だけは知っているけれど、兄にも解呪の方法はわからないこと。また、兄はこの話を信じてくれているけれど、魅了の影響は自覚できていないこと。
ただ、すでに別の魔法の影響を受けている彼女は、魅了されることはないだろうということ。
(推測の言葉を使ったけれど、この点については確定していた。魅了されないからこそ彼女は悪役令嬢を倒すヒロインなのだ)
そこまで話してから、わたしは自然と声のトーンが落ちてしまうのがわかった。
「これは推測になるけれど、わたしだけがあなたの顔を見ることができるのは、おそらく……」
「わたしたち二人とも呪われているからってことですね!?」
わたしが口にしにくくて濁した言葉を、彼女はためらいなくいいきった。さすがだ。根性がある。
「わかりました、会長。そういう事情でしたら、わたしもお力になれるかもしれません!」
彼女はドンと自分の胸を叩いた。
それからわたしの胸元をじいっと見つめて、深く首を傾げ、また元に戻っていった。
「今のわたしの実力じゃ、その呪いを解くことはできないと思います。でも、闇の宝石という名前からして、禁呪の中でも闇魔法によるもののはず。わたし、こう見えても光魔法が使えるんです。ひいおばあちゃんが凄い魔法使いだったらしくて、その血を受け継いでいるんだろうって教会の人にはいわれました。だから、これから猛特訓して、もっと強い呪文も使えるようになってみせます! 闇魔法に対抗するには光魔法ですから! わたし、会長の呪いを解けるように頑張ります!」
わたしは驚いて、無言でまばたきを繰り返してしまった。
そうだ、わたしの当初の目的は、彼女と親しくなって、この闇の宝石を粉砕してもらうことだった。彼女の抱える事情を知ってからはそれどころではなくなってしまったけれど、わたしだって死にたくないし、これ以上魅了をばら撒きたくもない。
わたしは思わず彼女の手を握りしめていっていた。
「ありがとう……! とても嬉しいわ。でも、無理はしないでちょうだいね。あなたは大変な事情を抱えているのだから、まず自分を労わってあげてね」
のっぺらぼうになってしまったなんて重すぎる事情である。わたしは本心からいった。
だけど、彼女はこちらが遠慮していると受け取ったらしい。いっそう燃え上がった様子で、わたしの手を力強く握り返していった。
「会長……! わたし、死ぬ気で頑張ります!!!」
待って死ぬ気はやめてちょうだい頑張らなくていいのよ普通でいいの、と、言い含めるには、結構な時間を費やした。
※
保健室を出て生徒会長と分かれ、一人で廊下を歩きながら、彼女は再び深く首を傾げた。
彼女の曾祖母は偉大な光魔法の使い手だった。彼女はその血を色濃く受け継いだ。魔法使いと名乗るには未熟な身であるが、光魔法という一点に限るなら相応の実力があると自負している。
彼女は廊下を歩きながら、保健室での会話を何度も反芻しながら考えた。
(会長のネックレス、あれは確かに闇魔法を内包していたけど、それが周りに作用しているようには見えなかったんだよね)
魔法は事実そこに在った。禁呪と呼ばれる類のものであるかもしれないとは感じた。
(だけどあれは、わたしの眼には、強力に封じ込められているように見えた。ほかでもない、会長自身の魔力によって。……でも、そんなことってある!?)
会長の顔は真剣だった。深く悩み苦しんでいるのが伝わってきた。あれが嘘だとは思えないし、そんな嘘をつく理由もないだろう。
(自分でも無自覚に封印している? うーん、でも、気づかないなんてことがあるかなあ?)
多分ない。禁呪を封じ込めるには強い魔力が必要だ。力が流れ出ていく感覚を、本人が自覚できないとは思えない。
(だとすると、考えられるのは二つ。一つ目は、わたしのこの顔と同じで、周りからはそう見えているだけ。会長はわたしの顔に気づいてくれたけど、わたしは会長の呪いの真の姿を見抜けなかった。……情けない話だけど、あり得そう……)
生徒会長は若き天才と呼ばれる実力者だ。同年代の中では頭一つ抜きんでている魔法使いだ。自分が同じものを見ることができないというのは十分あり得る話だと、彼女は思う。
(もう一つの可能性としては……、会長の認識が歪んでいる。あの闇の宝石は確かに封じられていて、周りに影響を及ぼすことはない。封印したのは会長自身。だけど会長はそれを自覚できない。それこそが会長にかけられた真の呪い)
ううんと彼女は首をひねる。実をいうと、こちらの可能性のほうが高いと思っていた。
なぜなら彼女は、会長の恋人だと噂に聞くあの副会長の男と話をしていたからだ。
倒れ込んだ会長を咄嗟に支えたのも、その身体を抱き上げて保健室まで運んだのも副会長だった。
そして副会長は『会長の意識が戻ったら話がしたい、それまで付き添わせてほしい』と訴える彼女に、穏やかな微笑みで『心配はいらないよ。先生がいるから大丈夫だ。君は授業に戻りなさい』と諭し続けた。
彼女がどれほど懇願しても、半ば食ってかかる勢いで頼み込んでも、副会長の微笑みはまるで崩れなかった。その濃い青の眼の奥に、ぞっとするような怒りをたぎらせているくせに。
会長が倒れたのは彼女のせいだと副会長は察していたのだろう。だけど副会長に何もないこの顔は見えていなかった。だから理由まではわからなかったはずだ。副会長からすれば、こちらが何かしたせいで、恋人が突然倒れたようにしか見えなかっただろう。怒り狂って当然だ。
だけど笑顔の仮面を外さなかった。どこまでも理性的に、副会長として真っ当に振舞っていた。おそらくは、それが最大限恋人を守ることだとわかっていたから。
何が起きているのかわからない状況下で、恋人を守るために必死に冷静であり続ける。
(そんな真似は、魅了の影響を受けている人間ができることじゃないと思うんだよね)
植え付けられた恋ならば、理性はすでに抑え込まれている。激情のままに振る舞い、彼女を責め立て罵り、会長に何をしたと問い詰めていただろう。
けれど副会長は最後まで微笑みを崩さなかった。理性で激情をねじ伏せた。
(副会長、絶対ちゃんと会長のことが好きだと思いますよ! っていいたかったけど、今のところはわたしの想像にすぎないしなあ……。もしも違っていたら、ごめんなさいで済む話じゃないもんね)
会長が苦しんでいるのがわかるからこそ、軽々しく口にすることはできなかった。
それに、会長の認識が歪められているのだとしたら、いったい誰が何の目的でそんな奇妙な呪いをかけたのか? という謎も出てくる。
ただ、と、彼女は思う。
(わたし自身がこんな意味不明で絶対許せない呪いをかけられているんだから、世の中には理不尽で理屈の通らない呪いも存在するんでしょうよ)
まるで世界が敵になったかのような理不尽さだ。犯人がわかったら絶対にボコボコにしてやると心に誓いつつ、彼女は考える。
(意味不明すぎて、犯人がいないっていわれても納得しちゃいそうだもん。事故とか天災とかそういう類のものなのかも……。でもっ、絶対に何とかしてみせるんだから!)
昨日まではそんな風には考えられなかった。
だけど今、理解者を得たことで、ひどく心が軽くなって、力が湧いてくるようだった。
彼女はこぶしを握り締めて、ぐっと天へ向かって突き出した。