2.最近つれない客のこと
あたしはカップを思い切り叩きつけた。
気持ちの良い音が鳴って一瞬の爽快感は得られたが、直後に「アイビー! うるさいよ!!」と館長の怒鳴り声が響いてテンションはだだ下がり。よくあることなのでわざわざ部屋に入ってまで叱りつけてくることはない。
「テメーのほうがうるせーってのクソババア」
割れたガラスを拾う気にもならない。整えたはずの髪はイライラで弄ってしまったのかいつのまにか乱れていた。
「クソッ……こんなはずじゃなかったでしょ……」
あたしは新規客からの指名は多いが、リピーターはあまり居ない。彼らはあたしの良さをわかっていないのだ。
子爵令嬢のあたしは幼い頃から可愛いと評判だった。勉強はすこし苦手だけど、それでも良いと言ってくれる男は多かった。いろいろあっていまは娼館で泊まり込みで働いている。家族は怒ってまだ許してくれてないだけだ。
で、ちょっと前からものすごい太客があたしを指名してくれるようになった。フィロス殿下だ。この国の王子様で、将来の国王。
フィロス殿下はヘタクソで適当で痛いが、そのかわりすぐ終わるし、お金もたくさんくれる。なによりあたしのことを愛してると言ってくれた。
「あの忌まわしいカトレアと婚約を破棄して、きみを王妃にしてみせる」
そう言ってくれたのに。鵜呑みにするほど馬鹿じゃないけど、愛妾でも良かった。今の生活から抜け出して贅沢な暮らしができればそれで。
そのカトレアとかいう女が、王子様の婚約者なのに蛇蝎のごとく嫌われていることに優越感を感じていた。可愛いあたしが殿下の心を奪ってしまったから。殿下から聞いた話で積み重なる想像は、野暮ったく冴えない女を脳内に映し出す。
でもフィロス殿下は来なくなった。従業員から客への連絡手段はないので問い詰めることもできない。王宮に行けばほぼ確実に会えるだろう。あたしが入れる立場の人間であれば。
悶々とする日が続いた末にようやくフィロス殿下は訪れた。興奮しきって今にも暴発しそうなその様子を見て、来なかったのは忙しくて訪れる間もなかったのだろうと思った。あたしはいつも通り笑顔で「フィロス殿下っ、会いたかったです!」と純朴な少女を装って話しかける。
「ああ……」
抱きしめられて、口付けられて、そのまま胸を揉まれながらベッドに押し倒される。なんてことはないいつも通りの流れ。
来ると思っていた衝撃は一向に訪れない。人の身体を使った自慰ともいえる行為は慣れていても常にわずかな痛みを伴うので、覚悟して身構えていたあたしは不思議に思って目を向けた。
「フィロス殿下?」
フィロス殿下の剥き出しになった下半身は何の兆しも見せていなかった。あんなに興奮した様子で、今もなお溜まっていますと言わんばかりなのに。
「こ……こんなはずでは……いや、違う、俺は…………」
殿下は1人でぶつぶつ呟いて、焦ったように服を整えて部屋から出て行った。
「……………………は?」
何が起こったのか把握したのは娼館の入口が閉まる音がしたあとだった。殿下に何があったかは知らない。このあたしを前に情けない姿を晒し、金も払わず出て行った。それがすべてだ。
「なんで、なんでなの、ありえないでしょ。なにがあったっていうの」
そうして娼館の一室から離れの自室に戻って、あとはさっきの通りだ。
自分の身体が男から魅力的にみえるという自負があった。だからこそフィロス殿下のあの反応にプライドが傷付けられたような気がして納得がいかない。このままでは本当に2度と来なくなってしまうのではないかという焦燥感が湧き上がってくる。
調べなくては。王宮は証さえ門番に見せれば通れるはず。証を手に入れられなくても、門番を落とせば入れるだろうか。
「絶対に謎を解いてやる……!」
あたしはクローゼットを漁って子爵家に居た時のドレスを何着か探し出す。
床に散らばる脱ぎ散らかした服。テーブルの上に転がるメイク道具といくつかの酒。割れたグラスに残った紅茶が床を濡らしていたが、そんなこともはやどうでもよかった。
王都には昼も夜もなく人が働いている。それは王宮も変わらない。けれども当然ながら夜の方が人は少ない。
夜は危険なこともそれなりにある。なので王宮の警備は昼間より多い。……が、実際ことが起きることは滅多にない。そのため警備の騎士たちはサボったり、立ってるだけでうたた寝していたりということもままある。
あたしだって「ここの警備をしろ」って言われてその場に何時間も真面目に突っ立っていることなんてできる自信がない。
というわけで、夜の王宮はテロ予告があって警戒しているとかでもない限りはけっこうザルだ。悪人からしてみれば騎士がたくさんいるという状況がそこにあるだけでかなり緊張するので牽制にはなっているんだろう。
あたしは難なく王宮に入ることができた。呼び止められた時に「証明書を忘れてきてしまって……でも急ぎなんですっ。ご心配でしたらあたしの後ろをついてきて下さってかまいませんから」と言えばアッサリ通してくれた。
バレたら困るようなことが露呈しそうになった時、敢えて自分の懐に入れるそぶりを見せれば「そこまで言うのなら大丈夫だろう」と引き下がってくれることが多い。今回はもし提案に乗られてもどうにでもできるのでリスクもあまりなかった。あたしの処世術はなかなかイケてる。
王宮に入ってさえしまえば、よっぽど怪しい行動をしない限り疑われることはないだろう。王宮はまだ立ち入りが許されていたころに家族と訪れたことがある。大きくてすごいと思った記憶しか残っていない。どうせ偉い人の部屋なんかは上の階にあるだろうから、とりあえず階段を探しては登っていく。
「あら。あなた、見ない顔ね」
時たますれ違う人は居るものの特に反応はされなかったので、突然話しかけられてすこし驚いた。
「あ……ハイ。ヘデラ子爵家長女、アイビーと申しますっ」
娼館で働くようになってからほとんど行う機会がなかったカーテシーも、幼少のころから慣れ親しんだおかげかスムーズに行えた。
頭を上げて声の主を見てあたしは息が止まるような心地になった。
艶やかで長い黒の髪は腰まで真っ直ぐ伸びていて枝毛のひとつもない。カッチリとした詰襟のドレスは軍服ドレスと呼ばれる流行りのものだ。その中でも特にスカート部分にふんだんにフリルをあしらって豊かに広がるタイプが人気なので、彼女の着るマーメイドスカート型のものは珍しい。
バーガンディーのアイシャドウは外側へ滲むようなグラデーション。上瞼の中央にはシマーなゴールドが縦に入っていて、光が当たると立体的に輝く。敢えて上げないまつ毛が重たそうな前髪と揃って顔に影を落としている。同系色のマットなリップはすこしだけオーバーに塗られ、チークはわざとなのか塗っていないようで頬の血色感はやや足りない。
魔女。ひと目見てそんな単語が脳をよぎった。
ミステリアスで妖艶な雰囲気は謎の圧力すら感じる。あたしは数年前に実際に夜会で着ていた、今となっては型落ちのドレスのすそを軽く握った。
「わたくしはカトレア・ブラッソと申します。あなたは王宮にはあまり来られないのかしら」
あたしの挨拶に彼女は頷くだけ。あたしより爵位の高い家の人なのだろうか。
カトレア・ブラッソ……と名前を反芻して、その耳馴染みのある音の並びにハッとした。
(フィロス殿下の婚約者!)
気が付いてすこし身構える。カトレアは微笑を浮かべあたしの言葉を待つのみ。
「えっとぉ……」
フィロス殿下の話によれば、カトレアという女は伯爵令嬢であるにも関わらず王太子殿下の婚約者の座におさまる恥知らず。王妃の座に執着しており、そのわりに婚約者を立てることを知らない。愛想がなくいつも人を小馬鹿にしているという。
王太子の婚約者ともなれば、侯爵家以上か、他国の高位貴族や王族が普通だ。平民の大商人がそこらの貴族以上の財を持つことがたまにあるように、地位は低くともそれを補ってあまりある要素がこのブラッソ伯爵家とやらにはあるのだろう。どうせ金にものを言わせたに違いない。
「あの……フィロス殿下に用があって。どちらにいらっしゃるか知りませんか?」
思った以上に威圧感のある女だったから一瞬すくんでしまったけど、結局カトレアなどフィロス殿下に嫌われた哀れな女。この女の息を呑むほど美しい容姿も殿下の心を寄せるには至らなかったのだと思えばたいした脅威ではないと認識できた。
「フィロス殿下に? 申し訳ありませんが、殿下はこの後予定がありますのでまた後日いらしてくださいませ」
────そんなわけないでしょ、今何時だと思ってんの!
そう言いかけたのを押しとどめる。昼間に働く人間はすでにくつろいでいるし、子どもはもう寝ている時間だろう。見え透いた嘘だ。
「他の女性が近付くのが不安なのね。カトレア様はなんと愛情深いお方なのでしょう」
頭に来て嫌味を言っても涼しげな顔はなんの変化も見せない。顔が引き攣るのを感じる。しまった、扇でも持ってくれば良かった。ドレス同様長年使うことがなかったからどこにしまったのかさえ忘れていた。
「カトレア、どうしんだ。遅いから心配したんだぞ」
そう言いながら足早にやってきた男性がぐいっとカトレアの腰を抱く。
「えっ」
「……あ」
あたしとその人の声はほぼ同じタイミングで重なった。
「どうしてフィロス殿下が……」
何故目の前でフィロス殿下はカトレアの身体に馴れ馴れしく触れているのか。
「まあ。お知り合いでしたの?」
「い、いや、違うんだ、その……知らない人だよ」
「そんなことより。わたくしは触れていいと許可しておりませんわよ」
「はっ、はい。申し訳ありません!」
あたしが混乱している間に2人の会話は進んでいく。
カトレアは触れてきたフィロス殿下を跳ね除ける。冷たくあしらわれているにも関わらず、殿下は頬を赤らめてうっとりしているではないか。
……というか、いま、あたしのことを「知らない」って言った?
「フィロス殿下! なんで嘘つくんですか!?」
「……彼女はこう言っていますが?」
フィロス殿下はあたしを頭の先から足の先まで見る。そしてその後にカトレアを見た。まるで見比べられているかのようだ。
「まさか。こんな野暮ったい女と知り合いなわけないじゃないか」
「ヘデラ子爵家が財政難というのはあまり耳にしませんが……」
あたしは顔がどんどん熱くなっていくのを感じた。
もう何年も袖を通す機会の無かった流行遅れのドレスは今の体型にはややきつい。少女と言われる年齢は過ぎているから、まだいけると思っていたけどデザインもギリギリかもしれない。自分の力で生活するようになって、侍女も居ないから髪も肌も質が落ちた。
2人から遠回しにそういったことを指摘されて、自分の存在が恥ずかしいもののように思えてきた。
「なんで、フィロス殿下……あたしを王妃にしてくれるって言ったじゃない」
もうあたしにはフィロス殿下にすがるしかなくなっていた。どうして。あんなに愛し合っていたのに。
「行きましょう、フィロス殿下。わたくし今日は日付けが変わる前に帰らねばなりませんから」
「そうだった。きみとの時間が減ってはたまらない」
2人はあたしを無視して仲睦まじそうに去っていく。情に訴える一縷の望みさえ潰えて、下唇を噛み締めた。